レポートVol.59     西欧マーブリング小史(2)

西欧マーブリング小史(2)  野呂聡子

実験と改良、洗練と発展、衰退と拡散、そして復興

 Wolfeは西欧でマーブル紙が作られるようになってから、隆盛と衰退を経たのちに新たな展開を見せる19世紀初頭までの200年間の技術発展を、三段階に大別している。

第一段階は1600年代初頭から1680年代までの実験と改良の時代であり、第二段階はフランスとドイツでマーブル紙産業が量的にも質的にも黄金時代を迎えた1680年代から1740年頃まで、そしてそれ以降から18世紀末頃までを第三段階とし、マーブリングの技術自体はヨーロッパ諸国に拡散したものの、作られるパターンの幅は狭まり、産業が全体的には衰退した時期と位置づけている 。

1680年代を最初の境界としているのは、それ以前と以降ではマーブル紙作りに携わる職人の構成やデザインの傾向に違いが見られるためだ。1680年代以前に生産されたマーブル紙は、その大半が櫛状の道具ですき目を入れて作る「コーム」または「スモール・コーム」と呼ばれるパターンであった。

1680年代以降は、製本業界などから独立してマーブル紙作りを専門とするようになった職人たちが、新しいパターンの生産に乗り出した時期であり、技術的成熟と実験的精神のもとで多くの優美なマーブル紙が生産された。

この第二段階の時期にドイツとフランスの両国で作られたマーブル紙は、互いに非常に似通っており、色彩もパターンもほとんど同一である。そのため産地がいずれの地であったかを外観のみから判断することは難しく、最終的には書物の奥付や製本様式から産地を推測するほかない。

18世紀半ばになると独仏以外の地域でもマーブル紙が製造されるようになる一方、複雑で手間のかかるパターンは作られなくなっていく。精巧なデザインや実験的な試みは、一握りのハイクラスな製本家やマーブル紙職人が、高い対価を支払う裕福で洗練された顧客向けにマーブル紙を作っていた時代だからこそ可能なことであった。生産量の増加とともにマーブル紙の利用が広がり、一般の製本業者やそれほど洗練されているとはいえないコレクターらの間でも需要が高まると、効率をより重視する新しいタイプの職人が参入して来た。彼らはより早く、簡単に、そしてより安く仕上げられるように、絵具を振りまくだけでできる単純なパターンを専ら生産した。
こうした変化に加え、マーブル紙産業の秘密主義(後述)も、職人同士の技術の伝承を妨げ、手のこんだデザインの製造が衰退する要因になったと考えられる。

マーブリング産業の発展が新たな段階を迎えたのは、遅ればせに参入して来た英国が独仏と並ぶマーブル紙生産国となり、技法においても絵具にテレピン油やガルを加えた新しい製法が用いられるようになる19世紀前半のことであった。

以下、Wolfeの記述にのっとり、時代別・地域別にマーブル紙の代表的デザインの変遷を概観する。

ライン

17-18世紀フランス及びドイツ

 上に述べたように、17世紀初頭から終盤にかけて最も盛んに作られたのは、コームまたはスモール・コームであった。まだマーブル紙産業がなかった1660年代のイギリスで製本された書物にも、このパターンのマーブル紙が使われていることがある。つまりこの時代にはすでに、独仏では外国に輸出できるだけの量のマーブル紙が生産されていたということだ。
ちなみにイギリスは紙にかかる関税が高かった。そのため、輸出元のニュルンベルクにおいて玩具をマーブル紙で梱包し、それを玩具として安く輸入したのち、マーブル紙のしわを伸ばして(主に製本業者に)売るという苦肉の策もとられた。量的にも質的にもマーブリング産業の黄金時代であったとWolfeが強調する1680-1740年代を代表するパターンは、以下の5つである。

飾り罫

カール、スネイル、またはコマン

レポート59 画像01 Snail
Wikimedia Commonsより

1630年代には導入されていたと見られる。ヴァリエーションを作りやすい、失敗を隠しやすいなどの利点も手伝って広く作られるようになり、17世紀後半にはフランスのマーブル模様ごく一般的なデザインとなっていた。18世紀に出版されたディドロとダランベールらの『百科全書』では、この模様の紙を「コマン(Commun=一般の、普通の)」と呼んでいる。初期の渦巻き模様は大きく、不揃いで、不規則な間隔で描かれていたが、時代が下るにつれて、小さめの渦巻きが規則的に並んだデザインになっていった。この小ぶりのカール模様は1720~30年代から18世紀の終わりまで、フランスで作られた書物の見返しにおいて、最も頻繁に見られるパターンである。

プラカール

フランスでは1740年代以降は作られなくなったパターン。一方、遅ればせにマーブル紙製造を始めたデンマークやスウェーデンには、18世紀後半に作られたと見られる(若干つたない)このパターンのマーブル紙が現存している。

ペルシエ

名前は「パセリ」の意。コームをジグザグに引いて模様を作る。「プラカール」同様、フランスでは1740年代以降は廃れた。

ダッチ

レポート59 画像02 Dutch
The Photoshop Roadmap 15 Vintage Marbled Paper Textures From Very Old Booksより

「スモール・コーム」の変形したパターン。
なお、ダッチといっても必ずしもオランダのことではなく、この場合は広くドイツ文化圏を指した呼称である。

ダッチ(Dutch)は現代ではオランダ語やオランダ人の意味で使われるが、古くはドイツ語およびドイツ人を指す言葉であった。この語とDeutschは同語源である。元来オランダはドイツ文化圏の一部とみなされていたが、後に意味が狭義化した。(Wikipediaより)

また特に英国においては、ある品物が実際に製造された場所はさて置いて、単にオランダ経由で輸入されたために「ダッチ」の名が冠される場合もあった。例えば1700年頃に登場した、金を使った華麗な装飾紙は「ダッチ・ギルト・ペーパー」の名で呼ばれたが、実際の生産地はドイツおよびイタリアであった。

ターキッシュ

レポート59 画像03 Turkish
Project Gutenberg The Progress of the Marbling Artより

「スポット(斑点、水玉)」あるいは「ストーン」とも呼ばれる、最も単純なパターン。18世紀末まで大量に作られた。初期の製品(その名の通りトルコ産マーブルを模して作られた)と、より後期の製品では配色に変化が見られる。
ちなみににこの時代のマーブル紙で主に使われた色は赤、黄、青、緑の4色であり、その中でもほとんどの場合に支配色として使われたのは赤であった。

 

18世紀半ばにさしかかると、フランスのマーブル紙産業は下火を迎える。ターキッシュや、小ぶりな渦巻き模様模様が規則的に並ぶコマン(=カール、スネイル)は、フランスの主要なマーブル紙としてその後も50年余り生産され続けたが、プラカールやペルシエはもはや作られなくなった。
1780年代には高名な製本家一族ドローム家のニコラ=ドニ・デローム(Nicolas Denis Derome、またはDerome le jeune/デローム・ル・ジュヌ、”若きデローム”、1731-1790)が緑を基調とした美しいターキッシュ・マーブル紙を作り、ルイ16世の蔵書の多くを飾ったが、産業全体を浮揚させるほどのインパクトはなかったものと見られる。フランスにおけるマーブル紙産業の傾きを直接に物語っているのは、1758年に発行された『Journal Oeconomique』(1751-1772刊行)の中のマーブル紙製造に関する記事である。記事の筆者はその冒頭でこう嘆いている。 「(そもそも人数が少ない)マーブル紙職人たちの中でも、然るべき美しさと完成度に達する技術を持つ者は稀である。この分野においては、外国人、とりわけドイツ人の方が我々より遥かに勝っているため、我々が最上の品を手に入れたい場合は、外国の製品を購入せざるをえない。これは我が国の通商における著しい損害である。」これ以降の文章で著者は(秘密主義のため製法を知る者が少なかった)この産業の振興に役立てばとの意図から、マーブル紙の製造方法を記述している。しかしそこで述べられているのは、上記のパターンの中で最も簡単なターキッシュのヴァリエーションのみであり、すでに他のデザインの製法を知る者が少なくなっていたことを暗示している。『Journal Oeconomique』から7年後の1765年に出版された『百科全書』第十巻では「マーブル紙職人」に一項目を割き、プラカールやペルシエを含む様々なマーブル模様の作り方を解説している。『Journal~』よりも後年に出版された『百科全書』の方が詳しい記述を載せているのは、その情報源が当時現職の職人ではなく、かつてマーブル紙産業に従事していた人物でったためであるとWolfeは論じている。
『百科全書』はその記事の序文において、以降で紹介されているマーブル紙の製造方法は「夫がマーブル紙職人であった、今はたいへん惨めな境遇にある寡婦から教わったものである」と述べている。Wolfeは当時の平均寿命から考えて、この寡婦が情報を提供した当時50~60歳代であったろうと推測し、そこから逆算して、彼女が夫と共にマーブル紙製造に携っていたのは1720~1740年代、つまりフランスにおけるマーブリング黄金時代にあたる頃であったという結論に至っている。

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Wikipediaより

『百科全書』の執筆者が、現職のあるいは引退したマーブル紙職人当人からではなく、「たいへん惨めな境遇にる寡婦」から、おそらくは相応の報酬を支払って製法を聞き出さねばならなかったのは、7年前に『Journal~』が発行された後もマーブル紙産業が依然として秘密主義を保っており、職人からおいそれと情報を引き出せる状況にはなかったためと考えられる。
『百科全書』はマーブル紙の製法や道具について図入りで詳細に記した最初の出版物であった。しかし「技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、そしてただ自分自身のためにのみ自学する人々を啓蒙すると同時に他人の教育のために働く勇気を感じている人々を手引きするのにも役立つような」この事典が世に出たのちも、マーブリング業界の秘密主義は長らく続いたようだ。

パリで『百科全書』が発行されてから約1世紀後の1853年、ロンドンでマーブル紙職人チャールズ・ウールノー(Charles Woolnough)によるマーブリングの技法書『The Art of Marbling』が出版された。約30種にも上るパターンの作り方を解説したこの技法書の中で、ウールノーは自らの徒弟時代を振り返り、この産業を衰退させる一因として、彼が直接に経験したのであろう工房の秘密主義を具体的に述べ、苦言を呈している。また翌年に出版された第二版では、職業上の秘密を公開したかどで同業者たちから顰蹙を買い、「さまざまな悪口、侮辱、嫌がらせ、迫害に晒された」とも記している。

以上に見られるように、マーブル紙の製法がヨーロッパに伝わって以来、マーブリング産業はその技術が工房の外部に流出することを警戒し続けて来た。
そのためでもあろうか、イギリス、イタリア、スペイン、デンマークなど、独仏以外の欧州諸国でマーブル紙が作られるようになったのは、ようやく18世紀半ばになってからのことであった。

 

 <参考文献>

  • 『Marbled Paper: Its History,Techniques, and Patterns』Wolfe 1990
  • 『Three Early French Essays on Paper Marbling』Wolfe 1987
  • 「マーブル紙 その歴史・技術・美」入交光三『市立大学図書館協会会報』52 1969
  • 「18世紀フランスのマーブル紙づくり ディドロとダランベールの『百科全書』における「マーブル紙職人」を中心として 貴田庄 『武蔵野美術大学研究紀要』24 1994

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