「ヴェネツィアの印刷出版業者 アルド・マヌーツィオ 前編」

《 前 編 》

 今年2015年は、15世紀末から1515年にかけてヴェネツィアで活躍した印刷出版業者アルド・マヌーツィオ(Manuzio, Aldo, ca.1450-1515)が亡くなってちょうど500年となる。
 そのため、彼の没後500年を記念して欧米各地で記念行事が開催されている。その理由は、彼の印刷出版活動がルネサンス時代の学芸に多大な影響を与え、文芸復興を印刷の面から推進したことで、彼が史上最も尊敬される印刷出版業者の一人となっているからであろう。彼と同様にその名がよく知られる同業者としては、活版印刷術の発明者ヨハネス・グーテンベルク(Johannes Gensfleisch, Hof zum Gutenberg, ca.1400-1468)、英国に印刷術をもたらしたウィリアム・キャクストン(Caxton, William, ca.1422-91)、16世紀パリの出版黄金時代を築いたロベール・エティエンヌ(Estienne, Robert, 1503-59)、アントワープにヨーロッパ最大の印刷所を創設したクリストフ・プランタン(Plantin, Christophe, ca.1514-89)等である。
欧米での知名度とは裏腹に、わが国では彼について言及されることはあまりなく、決してよく知られた人物とはいえない。そのため、本稿で彼の生涯とその活動を紹介してみたい。
Manuzio, Aldo.  アルド・マヌーツィオ
アルド・マヌーツィオ(1452年~1515年)

 

 アルド・マヌーツィオはローマの南の小村バッシアーノで生まれたが、少年時代までのことはほとんど何も伝わっていない。1460年代末からローマのサピエンツァ(ローマ大学)でラテン語と古典学を学んだ。その後、友人である哲学者ピーコ・デッラ・ミランドラ(Pico della Mirandola, Giovanni, 1463-94)と共にフェッラーラのバッティスタ・グァリーニ(Guarini, Battista, 1435-1505)の学苑でさらにギリシア語と古典学を修得した。そして、ピーコ・デッラ・ミランドラの仲介で彼の親戚であるモデナ郊外カルピの領主ピオ家の2人の息子、アルベルトとリオネッロのラテン語とギリシア語の家庭教師となり、自ら教科書を編んで古典語を指導した。
アルドはカルピでギリシア語を教える際に優れた校訂のギリシア語文献の不足に直面した経験から、自ら優れたギリシア語書を印刷出版しようと思い至って1490年頃ヴェネツィアへ赴いた。ちなみに、彼のような学者であり有能な印刷業者になった人物を「学匠印刷家」と呼ぶ。
(→ 次回へつづく)