「The Bone folder” 第9回」

A DIALOGUE BETWEEN AN AESTHETICALLY-INCLINED BIBLIOPHILE
AND A WELL-VERSED-IN-ALL-ASPECTS-OF-THE-CRAFT-BOOKBINDER
~書物の美に惹かれる愛書家とあらゆる製本技術に精通した製本家との対話~

日曜日:解 説

『Der Pressbengel』(The Bone Folder)の著者エルンスト・コリン、
そして製本家であった彼の父と祖父について、Verheien氏による解説

エルンストとその家族へ

この翻訳を始めて世に出したのは2009年の『Guild of Book Workers Journal(書籍業組合ジャーナル)』誌上においてである。その際に記した序文では、エルンスト・コリンその人や彼の家族、そして彼がたどった運命について、いくつもの謎が残されたままだった。彼の名前はヴォルフスケールの書簡集や、コッシュ編纂の『Deutsches Literatur-lexikon des 20. Jahrhunderts(20世紀ドイツ文学辞典)』、古書籍商のカタログ、そしてもちろん1984年に再版された『Pressbengel』の、メスナーによる序文の中にも現れる。こうした記述の多くでエルンスト・コリンを、同時代人でやはりベルリンに住んでいたエルンスト・コリン・シェーンフェルト(1886?-1953)と混同する誤りが見られた。シェーンフェルトの方は1930年代に妻マルガレーテと共にナチスの手を逃れ、1953年にロンドンで没した。2013年の春、私はコリンの親戚かもしれないという女性、ルース・ヴィーゼマンから連絡を受けた。家系図や公文書その他の文献を調べるうちに、私たちは2人のエルンストを明確に分け、家族の繋がりを明らかにし、多くの文献を新たに発見することができた。この調査については私のブログ「Pressbengel Project」の記事「The Tale of Two Ernsts」において詳しく述べている。

重要な足跡を残したベルリンの製本家一族であった彼らの記憶と、その製本界における貢献、そしてそれらについての最も重要な情報源であったエルンスト・コリン自身の著作物を、新たに書いたこの序文において再構築することができればと思う。こうしたことは全て、ハーティトラストのような2009年以降に入手可能となったリソースなしには実現できなかったことだ。ハーティトラストからは必要とされる文書のテキスト全文(時には不完全なものもあったが)を入手することもできたし、私が多いに感謝する所のシラキュース大学ILL部(図書館相互貸借サービス)で資料の取り寄せを申し込むこともできたのも、ハーティトラストで得た情報のおかげだった。

 

エルンスト・コリンとその家族

エルンスト・コリンは1886年5月31日に生まれた。父親も祖父もペルシアの王やドイツの皇帝に仕えてきた製本家で、この遺産はエルンストの著作に大きな影響を与えた。

ヴィルヘルム・コリン Wilhelm Collin

祖父のヴィルヘルム(1820.12.7 – 1893.3.8)はポーランド南部の都市ビトムで、内科医イザーク・コリンと妻ブリュームヒェ(旧姓キルヒャイム)の間に生まれた。一家は1832年にベルリンに移住し、ヴィルヘルムは1835年から1840年にかけて、同地でペルシアの宮廷製本家だったモスナーから製本の手ほどきを受け、1845年には自ら製本所を開業した。1859年、のちにプロイセン皇帝フリードリヒ三世妃となる王太子妃ヴィクトリアのお抱え製本家となると、商業製本を続けるかたわら、勅令を納めるための書類入れなどの製本で注目された。


王太子妃ヴィクトリア Wikimedia Commonsより

 

王立劇場の装備や舞台セットの作成にも貢献するなど諸々の功績を認められ、王冠勲章を受勲したヴィルヘルムは、1893年に身体を病み、ほどなくして数々の栄誉に飾られたその生涯を閉じた。

 

ゲオルク・コリン Georg Collin

エルンストの父、マックス・ゲオルク・コリン(1851.10.22 – 1918.12.24)は、父ヴィルヘルムにならって1866年から1869年にかけてマイスター・フンツィンガーのもとで製本家としての修行を積んだ。徒弟時代というものがたいがいそうであるように、これはあまり楽しい経験ではなかったようだ。その後ウィーン、パリ、ロンドンを遍歴(ロンドンでは「最も有名なドイツ人製本家」、ヨーゼフ・ツェーンスドルフのもとで働いた)。その当時、活発な通商と質の高い製本を誇っていたイギリスの製本技術業界を覗いたゲオルクは、この経験から、イギリスの製本を目指すべき理想と考えるようになった。しかしながら『The British Bookmaker 』誌第5号(1891-92)には、英国の製本に対して理想的とは言い難い見解を示す記事も寄せられている。記事の筆者によれば、当時の英国の製本は「頑丈だが、装飾スタイルや洗練を全く欠いており」、18世紀後半に活躍した英国の製本家ロジャー・ペインの仕事には遥かに及ばない、ということだ。

遍歴時代を終えたゲオルクはベルリンに戻り、父親の製本所で働き始めた。1873-75年の冬には、プロイセン皇子ハインリヒ(皇帝フリードリヒ三世とヴィクトリア妃の次男で、のちの皇帝ヴィルヘルム2世の弟)に製本を教授した。この時の逸話として、こんなものが伝えられている。接着剤に使うニカワのいやな匂いについて、宮廷から苦情が寄せられた。それに対してゲオルクはこう答えた。「仕方がないのです。オーデコロンを入れるわけにもまいりませんから」。実際の所、仕方がなかったのである。1878-81年にかけてベルリン芸術大学で素描と絵画を学んだ経験は、ゲオルクの製本デザインや素材の扱い方に大きな影響を与えた。1886年に父の製本所の共同経営者となったゲオルクは、1893年にヴィルヘルムが没したのちも工房の切り盛りを続けることになる。


19世紀後半のベルリン王宮 Wikimedia Commonsより

 

ゲオルク・コリンはドイツの製本家の中でも主導的な役割を果たした人物の1人であり、幾度もの賞に輝いた彼の製本作品や、着彩、箔押し、レダーシュニット(彫革)といった様々な技術を用いて作られた書類入れは、製本における芸術的表現の復興に貢献した。また彼はドイツが製本の水準を上げてフランスやイギリスのそれと肩を並べられるようになることを目指して、職人の育成、製本技術、製本デザインなどの改革に尽力した。ゲオルク自身の製本については以下の評言が物語っている。「革の取り扱いに見られる繊細な職人芸や独創的な箔押しなど、その誠実な仕事ぶりは特筆すべきである。彼の革モザイクは非常にドイツ的な特徴を備えていると同時に、この装飾技法が培ってきた最良の型に忠実なものとなっている」。

1898年以降、ゲオルクの製本スタイルはより”モダンな”ものになっていった。そうした非伝統的なスタイルを疑問視する向きもあっが、1901年にパリで開催された展示会で彼の製本は「進歩的で革新的」と評価され、ドイツからの出品では唯一の金賞を受賞した。とはいえドイツの製本、特に総革・金箔押しの高級な製本を、他国に匹敵するレベルへと引き上げるまで、まだ道のりは長かった。当時の製本業界誌は1900年のパリ万博に関して述べたゲオルクの文章を掲載し、ドイツにおける高級製本の水準について苦言を呈している。「製本が最も高い水準に達したのは、フランスにおいてである。残念ながら、我々はこれを指をくわえて傍観するしかない。我々には高水準の製本を生み出すのに必要な強さも、気力も、才能もある。ただ、顧客を欠いているのである…ドイツ人は製本に対して、フランス人やその他諸外国の人々ように気前よく金を出そうとしないのだ」。ドイツは量産型の版元製本では他国より優れているが、高級製本ではフランスやイギリスに及ばない、というのがこの記事の結論である。ゲオルクも、他の製本業界関係者たちも、最大の問題はドイツ人の趣味と蒐集の方向性をいかに変えて行くかという点であることを認識していた。こうした側面での変化が実際に起きたのは、保守的な帝政が終焉を迎えた1918年以降のことである。

ゲオルク・コリンは製本技術や装丁という側面だけではなく、後身の育成においても先進的であった。中でも特筆すべきは女性への職業訓練である。それまでも多くの女性が製本業界で働いてはいたが、女性たちは商売について学ぶことも、マイスターの資格を得ることも許されていなかった。ドイツにおける最も著名な製本家の1人であるマリア・リューアは、コリンの製本所で修行を積んだ女性であり、1902年、女性として初めてとなるマイスターの資格を手にした。これにはゲオルクの宮廷との繋がりが大いにものを言ったのである。リューアのマイスター入りがきっかけとなり、女性が商業を学び、マイスターとして働くことへの偏見(および職人たちからの抵抗)は解消されて行った。製本業界への女性進出を後押しする活動は、息子のエルンストも受け継いでいる。父のヴィルヘルムと同じく王冠勲章を受勲したゲオルクは、宮廷製本家(Koniglicher und Kaiserlicher Hofbuchbinder)の称号を賜った最後の製本家となった。妻のレギーナとの間には3人の子供を授かった。長女ゲルトルーデ、次女のエルザ、そしてエルンストである。ゲルトルーデは製本業を学び、家業を継いだ。1918年12月24日にゲオルクが亡くなると、のちにゲルトルーデが後を継ぐまで、寡婦となったレギーナが製本所の運営を続けた。1930年以降、製本所は「ペッチュ&コリンの印刷専門店(Spezialbetrieb fur Druckarbeiten unter Paetsch & Collin)」として商売を続けた。店はベルリンの各地に転々と居を移したのち、クアフュルステン通りとライプツィヒ通りに面した地所に落ち着いたが、1939年、ナチスによって「清算」された。

エルンスト・コリン Ernst Collin

エルンスト・コリン(1886.5.31 – 1942.12.9)はごく若い頃は家族の伝統にならい、製本業について学んだ。彼がどこで修行を積んだかは明らかではないが、エルンスト自身の言葉によると、1904年にベルリンの製本学校で1学期間、グスタフ・スラビやパウル・ケルステンと共に芸術的製本を学んだということだ。しかし彼は父や祖父とは違う道を選び、書物芸術やグラフィックアートを得意分野とする著述家となった。エルンストが初めて書いた記事は、ドイツの美術工芸従事者向け雑誌『Die Werkkunst: Zeitschrift des Vereins fur deutsches Kunstgewerbe 』の第3号(1907-08)に掲載されたものであることが分かっているのだが、目下の所、記事それ自体は発見されていない。この時の彼は自らの肩書きを「Kunstbuchbinder(芸術製本家)」としている。エルンストはジャーナリストでもあり、美術評論家でもあった。経済や政治について書く一方で、シャルロッテンブルク地区のモムゼンシュトラーセ27番に店を構え、美麗古書を扱う「コルヴィヌス古書店」を営んでいた。また彼は『Berliner Volkszeitung(ベルリン市民新聞)』および『Deutsche Export-Revue(ドイツ貿易の展望)』の編集委員でもあった。『The Deutsches Literatur-lexikon des 20. Jahrhunderts(20世紀ドイツ文学辞典)』によると、彼は様々なペンネームを使っていたようだ。コッレオーニ、エルコ、ハインリヒ・インハイム、エーリヒ・ラウエンブルク、ニコ、ニコル、エルヴィン・ロスバッハ、スペクテイター(観客、観察者)など。1935年にベルリンで発刊された人名録は、コッレオーニとニコルを彼のペンネームとして記載している。
エルンストが遺した著作の全容は明らかになっていないが、1937年に発刊された製本関連目録の記述から、少なくとも200以上の著作物を発表したことが分かっている。現在製作中の彼の著作目録は2015年に完成予定である。


20世紀初頭のベルリン Wikimedia Commonsより

 

エルンストが出版した最初の本は、一般の家庭向けに製本の基本を解説した『Buchbinderei fur den Hausbedarf (家庭のための必携製本術)』(1915?)である。かの『Pressbengel』は1922年に出版され、次いで1925年には製本家パウル・ケルステンの還暦を祝して、伝記をかねた記念論文を発表している。ケルステンはドイツの芸術的製本に大きな影響を与えた人物であり、彼の著作『Der Exakte Bucheinband (正確な製本)』(1923)は、ドイツにおける芸術的製本とはいかなるものかを定義づける一助となった。エルンストは評価の高い商業製本所のためにも、同様の記念論文を書いている。また彼はヤーコプ・クラウゼ協会の会報誌『Die Heftlade(綴じ台)』(1922-24)の記者兼発行人であり、921年に開催された同協会による展覧会の目録、『Deutsche Einbandkunst(ドイツの製本芸術)』の編集と執筆にも関わっている。ヤーコプ・クラウゼ協会はMeister der Einbandkunst (MDE、ドイツ製本家協会)の前身であり、パウル・アダム、オットー・ドルフナー、パウル・ケルステン、フランツ・ヴァイセといった、19世紀後半から20世紀前半のドイツにおいて最も影響力のあった製本家たちも所属していた組織である。

この他、1907年から1936年までの間に記事を寄稿した定期刊行物は、少なくとも36誌に上る。

1984年に再版された『Pressbengel』のグスタフ・メスナーによる序文では、1933年以降のエルンストの消息は不明とされていた。当時エルンストの仕事に対するナチスの締め付けは厳しくなる一方だったが、少なくとも1936年までは執筆を続けていたことが現在では確認されている。迫害はまずエルンストを編集者の地位から去らしめた「編集人法」に始まり、その後に施行されたいくつかの法によって、彼の労働環境はますます狭められていった。1936年の『Allgemeiner Anzeiger fur Buchbindereien(製本のための総合的指標)』に寄稿した「オットー・プファフスの職業生活25周年記念に寄せて」が、目下確認されている所ではエルンストが執筆した最後の記事である。

エルンストは政治的にも活発に活動した。ドイツ民主党と提携していた政治ジャーナル『Die Deutsche Nation(ドイツ国民)』には、誌への貢献者として、偉大な愛書家であったグラーフ・ハリー・ケスラーと並んでエルンストの名が挙げられている。中道左派のリベラル政党であったドイツ民主党は、その党員としてヴァイマール共和国外相のヴァルター・ラーテナウ、党首のフリードリヒ・ナウマン、そして1949年にドイツ連邦共和国の初代大統領となるテオドール・ホイスらを擁していた。

1947年、第二次大戦後初めて刊行された『Allgemeiner Anzeiger fur Buchbindereien』には、ヴィルヘルム、ゲオルク、そしてエルンスト・コリンの略歴と、彼らの仕事についての覚え書き、またエルンストがこの雑誌に長年にわたって寄稿していたことに言及した記事が掲載されている。この記事によると、ユダヤ人であったエルンストは1939年に移住を試み、それまで関係のあった出版社に宛てた手紙を残してベルリンを去ったが、その後の消息は知れないということだった。

エルンストのその後については『Gedenkbuch Berlins der judischen Opfer des Nazionalsozialismus (ナチスの犠牲となったベルリンのユダヤ人のための記念帳)』および、ホロコーストの犠牲者を慰霊するイスラエルの国立記念館、ヤド・ヴァシェムに記録が残されている。エルンストと妻のエルゼはベルリンからアウシュヴィッツに移送され、1942年12月9日に殺されたのだった。

 

『Pressbengel』について

『Der Pressbengel』(1922)はエルンスト・コリンの著作の中では最もよく知られた作品である。父親のゲオルク・コリンに捧げられたこの作品は、1984年にグスタフ・メスナーの序文付きでマンドラゴラ出版から再版され、1996年には『Dal Rilegatore d’Arte (芸術的製本家のもとで)』のタイトルのもと、イタリアで出版された。冒頭に述べたように、英語版の『The Bone Folder』を初めて世に出したのは 『Guild of Book Workers Journal (書籍業組合ジャーナル)』2009年版においてである。

この作品は、1人の愛書家と、あらゆる製本技法に通じた熟練製本家との対話と覚しきやりとりで構成されている。
オリジナルのドイツ語の文章は、書かれた時代の作文傾向を反映して、魅力的ではあるがいささか堅苦しい教科書調のトーンで書かれている。読者の教育を目的としたテキストにおいて、Q&Aという形式は古くから採用されてきた。その内容はニコラウス・クザーヌスの『Christliche Zuchtschul』のようにカトリックの教義である場合もあれば、読者に製本業の様々な側面とその伝統について紹介してくれるフリードリヒ・フリーゼの『Ceremoniel der Buchbinder 』(1712)のように、通商に関するものもある。
1937年初版のオルトリヒ・メンハルト著『製本家ルブリシウスと印刷業者ティンパヌスの夕べの対話』はコリンの『Der Pressbengel』と同様の、ただし主題には製本ではなく活版印刷を取り上げたである。当然ながらこの2作品には重なる部分も多い。『~夕べの対話』は1958年にドイツ語版が、そして1980年には英語版が、こちらはクラブグラス・プレスから100部限定で、フリッツ・エーベルトによる製本で出版された。[訳注;オルトリヒはチェコ人なので、オリジナルの作品はおそらくチェコ語で書かれたものと思われる]
コリンはその著作の中で一貫して、品質とコストの対立という問題や、製本の”機械化”がもたらすメリットとデメリットについてざっくばらんに語っている。ドイツの製本に関する複数の文書に貢献して来た著述家グスタフ・メスナーは、1984年に再版された『Der Pressbengel』の序文で、コリンの著作は当時高まりつつあった製本業の工業化という流れや、その帰結として技術や技法が失われることへの抵抗という側面がある、と語っている。多くの意味合いにおいて、この軌道は現在もなお続いている。そればかりか、正式に徒弟として製本を学ぶ機会の減少、書物の構造の単純化、美意識の変遷、そして書物に対する価値観や全般的な経済情勢のまったき変化によって、こうした流れはいっそう加速していると言えるだろう。

ドイツにはつい最近まで確固としたギルド体制があった。そのため一人前の製本家となって店を構え、ゆくゆくは弟子を取ることを志す者は、自らも正式な徒弟期間をつとめ上げなければならなかった。残念なことに、この体制はここ数十年の間に衰退し、製本所の多くは店じまいするか、さもなければもはや徒弟を取ることをやめてしまっている。弟子を訓練するという制度がなくなった今では、徒弟期間の完遂もマイスターの称号も、商売を始めるために必要なものではなくなったのだ。その一方で製本家同士のネットワークや、徒弟制度に代わる代替プログラム、例えば素人を指導する「マスター・ラン」店といったものが充分に発展しているとは言えず、製本の質の高さや長期に渡る技術継承の維持に必要な、しっかりとした訓練を提供できるまでには至っていない。
ドイツの他に正式な製本訓練の伝統を持つもう一つの国といえば、イギリスである。そのイギリスにおける徒弟制度の衰退はドイツ以上に早かった。そのほかの国々では、そもそもドイツやイギリスのようなレベルで業界の機構が整えられることがなかった。製本業界が最も多様な様相を見せたのはアメリカ合衆国においてであった。イギリスを始め、フランス、ドイツの伝統が移民たちによってもたらされ、混ざり合ったためである。米国ではヨーロッパで伝統的に行われていたような正式な職人養成課程が発達することはなく、その代わりとして、職人志望者は非公式の徒弟期間(職業内訓練)を経ることが慣例となった。それでも米国では、非常に質の高い芸術的製本を行う製本家が育ったのである。

1993年に出版された『The Future of Hand-Bookbinding(手製本のこれから)』は、米国の手製本業界が経験した変化について厳しいながらも秀逸な概観を提供しているが、素人製本家やブックアーティスト人口の急成長という点を見落としている。過去30年間というもの、全米各地でワークショップが開かれるなど、ブックアート全般についての関心は再び高まりを見せている。例を挙げれば、ボストンのノース・ベネット・ストリート・スクール(2年間のトレード・モデル実施)、米国製本アカデミー・コロラド支部(複数回のワークショップを開催)、アラバマ大学の製本MFA(美術博士号の授与)などである。こうしたプログラムは様々な伝統的技術の継承に役立っているが、あまりにも時代遅れとみなされる技法や、コストがかかりすぎるためにめったに行われない技法(金箔押しなど)は、現代の芸術的製本の技術から取りこぼされるおそれがある。

本作は『Der Pressbengel』の英訳版としては初めてのものである。オリジナルのテキストに忠実であろうと努めたが、学術的な翻訳というわけではないし、技術的な手引きとなるものでもない。1922年に出版されたオリジナルのドイツ語版がそうであったように、本作は当時のドイツにおける製本の技術・業界全般についての概説である。タイトルは、ドイツでバッキングプレスの締めつけを強める際に使われるごく専門的な道具を指したDer Pressbengel(プレスベンゲル、プレス棒)から、製本における最も象徴的な道具であるThe Bone Folder(ボーンフォルダー、骨べら)に変更した。というのも、ひとつにはPressbengelという語に明確に対応する訳語が英語にはないためであり、また現代の製本家や愛書家にとって、テキストをより取っ付き易くするためである。その他の小さな変更点としては、ブランド名を一般的な道具名に変えた箇所があるが、これはテキストの本質になんら影響を与えるものではない。その結果、オリジナルのドイツ語版の精神と本質に沿った翻訳となったことと、私は自負している。

 

『The Bone Folder』 完

原著は1922年『Der Pressbengel 』のタイトルでベルリンのEuphorion出版より刊行された。
2010年(c)Peter D. Verheyen翻訳

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