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 レポート31
 ■『日本の大地震・1891』‘The Great Earthquake in Japan’         Jean・MarieMahieu  
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 『日本の大地震・1891』のような本は、まさに、明治時代の鏡である。
結論を先に言えば、欧・米・日本の学者や芸術家や専門技術者による協力の結晶であるからである。
 表紙には著作者として、ジョン・ミルン、W.K.バルトン、そして K.小川の3名が書かれている。
 また、印刷術などの面でもこの本は、当時の画期的なものであると言ってよい。

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i.
 ジョン・ミルン(John・Milne 1850-1913)は1875から1895まで明治政府に雇われ、幾人かほかのイギリスの学者とともに、日本の地震学を設立しながら、地震計を発明したと言うことで有名である。
 しかし、彼のようなユニークな人物を簡単に紹介するのは難しい。
すでに日本に来る前、ラブラドル、中近東などで、地質調査の経験があったミルンは、1875年に日本政府に鉱山地質学者として招かれ、日本帝国工部大学校 (‘Imperial College of Engineering’・1886年から東京大学の一学部となった)の教授として勤めるようになる。 25歳であった。
 ミルンは、1875年の8月3日にイギリスを発つと、北欧、ロシア、シベリア、モンゴル、中国を経て、直行船便 ではなく、陸路で日本へ来た。 1876年の2月23日に上海に到着して、やっと横浜に入港すると、「なぜ、もっと早く来なかったか」と、相当批判をうけたようだが、この七ヶ月もかかった旅は、ミルンの性格を雄弁に物語っていると思う。自分なりの方法でものを見て、考えて、その経験を生かすという頑固さは、彼の数多くの功績の基にあるといっても過言ではない。日本で彼を待っていた友人が途中で事件に巻き込まれて死亡したのではないかとあきらめている間に、ミルンは、こつこつと、通過した地方の地質、動植物相、天候、風習などを幅広く研究していた。
 『アジア陸上横断を計画する者のための観察記録』(‘Observations for Persons Intending to Make the Overland Journey’)は、その長い冒険のまとめであって、今でも、読者をぞくぞくさせるものである。 日本でも、自分の専門である鉱山地質学よりも、地震学に本格的にとりかかったミルンは、研究において、おなじ粘り強さをしめした。
 来日した1876年から1877年にかけて、伊豆大島の火山が噴火して、ミルンはさっそくその調査にでかけ、火口まで登る計画をたてたところ、島民の誰一人も火口まで行ったこともなく、そこまでの道も知らないとわかって、無理やりに、六人の探検隊を組んで噴火中の火山の火口際まで上がった。
それから、ミルンは千島列島の最北から九州まで、全国の火山と言う火山を調査して、火山活動と地震との関係をあきらかにした。滞在中に、日本の歴史のなかで、もっとも激しい地震のひとつである濃尾地震が起こり、ミルンは、政府の命令にしたがってその調査に出かけた。調査結果のほとんどは、彼が創立した「日本地震学会」(The Seismological Society of Japan) の学会誌にのせたが、日本の地震の様子を外国にも紹介するために、『日本の大地震・1891』‘The Great Earthquake in Japan’を出版した。
 序文のなかで、質素な文体でこの地震の恐ろしさを述べる:死者:約10.000人、重症けが人:約15.000人、破壊された家屋:約10万軒。
 また、こういう惨事を防ぐ方法がいくつかあると強調して、日本政府がその訴えに応えて、全国にミルン式の地震計を設置したり、「掘込基礎橋台の構造」を導入したりした。

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ii.
 この本の共著者であるウイリアム・.K.・バルトン(William K. Burton 1855-1899)は、衛生工学の専門家として、1887年に日本政府と契約を結ぶ。このスコットランド人もまた、個性的で、自分の専門分野を超えて、さまざまな方面で優れた功績をのこした人物である。東京を始め、全国の大都市の上下水道の近代化、彼の設計による浅草の凌雲閣(十二階建)などは、ことに有名である。
 水と深いかかわりをもつ仕事に従事したバルトンが日本酒も大好きであったということに対しては、あまり驚きを感じないけれど、しかし、バルトンの関心ごとのもう一つは、当時、流行だした写真撮影であった。 日本人の日常生活、衣装、風習などの多くの写真をヨーロッパの新聞や雑誌にのせられることによって、日本の文化に対するヨーロッパ人の理解を深めただけでなく、明治時代の駆け出しの若い日本の写真家の作品も積極的に英国に紹介した。『日本の大地震・1891』の写真のほとんどは、バルトンの作品であるが、印刷することにあたって、バルトンは、親友である小川一真の力を借りることにした。

 

iii.
 小川一真(おがわ・かずまさ、1860-1929)は、埼玉生まれで、1882年にアメリカに渡り、ボストンで 写真技術を勉強しながら、’The Albertype’という絵葉書専門の出版社に入社し、そこで写真製版法を学んでから、1884年に帰国する。そして、バルトンと出会い、1889年に一緒に「日本写真会」を設立するはこびとなるけれど、その前の年、1888年に、小川は「築地乾板製造会社」を発足させたので、その会社で ’The Great Earthquake in Japan’印刷された。
 「日本と言う国を外国に売る」と言う意味で、明治時代においては、小川に匹敵できるものは、他にいなかったといっていいであろう。「日本の名所」、「日本の城」のタイトルの写真集がつぎつぎと築地の会社から次々生まれ、今でも、外国の古本屋に時々すがたをみせるのである。ちなみに、バルトンの凌雲閣がオープンすることをきっかけに、小川は、「東京美人芸者100人」の写真集を世に送ることもあって、彼はまさに、日本の写真集の祖であると考えてもそうおかしくないであろう。

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iv.
 『日本の大地震・1891』の印刷を任せたのは、小川の会社であるが、発行元の出版社は、’Lane, Crawford & Co’であることも忘れてはいけない。この出版社は、香港をベースにした会社の子会社であった。Thomas Lane とNinian Crawford は、二人ともスコットランド出身で、1850年に船具商として香港で商売をはじめた。商売といっても、最初は入港する船に堅パンを売ることに過ぎなかったのだが、結構、儲けにもなったようである。しばらくしてから、上海、神戸、横浜で支店が開かれ、本の出版をふくめて、さまざまな分野にわたって事業に乗り出す。日本におけるこれらの店は、いつまで営業を続けたのかは、残念ながら不明であるが、香港の本社の方は、今でも健全で、高級ブランドのデパートとして注目をあつめている。

 

v.
 序文のなかで、ミルンとバルトンは、次のようにこの本で使われた紙に言及している。
「小川氏が写真を複製した方法に関しては、お詫びのことばは必要ないと思われる。これらの写真は、時間がたっても、あせないという意味で、まさに永久的なものであるといっていいであろう。これらの写真は、その印刷のために利用された紙とおなじぐらい永久的である。この紙は、越前地方だけで製造されるので、この地震地方の生産物であるということを述べるということにも意味があると思う。実は、この事実によって、東京でこの紙を入手することは困難となって、本の校正刷に幾分の遅れが生じたのである」
 また、残念だが、この謎の「越前の紙の製造者」は誰であったということも、謎のままである。手で触った感じでは、洋紙にミツマタ、あるいは、コウゾの植物繊維が混ぜてあるようである。  

 このように見ると、以上に述べてあるミルンやバルトンや、 そして、小川の道は、微妙に交差して、明治中期のこの代表的な「外国向き」の本の出版を可能にしたのである。 ある意味では、日本社会のグローバリゼーションの始まりでもある。

 
 この貴重な本をみごとに修復していただいた「書物の歴史と保存修復に関する研究会」の皆様にふかく感謝いたすところである。
 
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 なお、この物語の登場人物の最後まで言わせていただければ、ミルンは、日本人である函館出身のトネ子婦人をつれて、1895年に英国に帰国して、そこで、ほぼ全世界を結ぶ地震情報ネットワークをつくることによって、イギリスを地震学のメッカにした。
 バルトンの方も、1894年に、荒川満津(荒川・松)と結婚するが、1899年に、当時、日本に植民地にされた台湾で、マラリアに罹り、死亡してしまった。
 そして、小川は、二人の妻につぎつぎと先立たれた後、板垣えんと結婚して、1929年に、69歳の年でこの世を去った。

Jean・MarieMahieu
文:ジャン・マリーマユ
翻訳家・愛書家

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