このアルバム、即ち「Album Amicorum アルブム・アミーコールム/友情の書」とは、16世紀半ばのドイツに発し、主にドイツとオランダの大学生や学者の間で流行した一種の寄せ書き帳である。もともとは学生が大学を卒業するにあたって、自分の所持する聖書の余白に学友や先生から記念のサインを書き入れてもらうという風習であったのが、流行を受けてあらかじめ書き込み用の白紙ページのある聖書が発売され、さらには専用のサイン帳が出回るようになった。サインの他に格言や詩の一節、絵や紋章なども書き込まれるようになり、対象も学友のみならず、遍歴修行の途上で知り合った人物や親類縁者にまで広がると、単なる思い出帳ではなく交友録あるいは履歴書のような役割を果たすようになった。
1590年代に製本されたと見られるアルブム・アミーコールムの1頁
同アルバムの他のページはこちら ↓ で見ることができる。
http://bibliodyssey.blogspot.jp/2007/06/simon-haendels-stammbuch.html
マーブル紙を綴じ込んだアルブム・アミーコールムの例
http://www.rarebooksdigest.com/2012/10/26/the-art-of-book-marbling-decoration/
装飾紙研究家Albert Haemmerleの著作『Buntpapier』(1961)によれば、早いものでは1575年頃に中近東を訪れた旅行者のアルバムの中に、同地で入手したのであろうマーブル紙が綴じ込まれているということだ。この時のマーブル紙は「エキゾチックな珍品」としてアルバムに収められたものであろう。キリスト教世界においてもマーブル紙が製造されるようになったのは、それから四半世紀後の事である。
西欧において初めてマーブリングが行われたのは、島屋政一著『印刷文明史』(1933)では1599年ニュルンベルクにおいてであったと記しているが、残念ながらこの記述の典拠は不明である。上述のAlbert Haemmerleによれば、1604年に製本されたアルバムに綴じ込まれているマーブル紙が、西欧で作られた最初期のものであるという。下記のサイトでは、プラハで1600年に作られたアルバム(下の方に画像が掲載されている)に綴じ込まれているマーブル紙は、間違いなく西欧産のものであると断言している。
http://goran.baarnhielm.net/Islam/eng/marmorerat.htm
またWolfeが実物に触れて確認した所では、1618年のアルバムに、見かけは同時代のトルコ産マーブル紙と変わらないものの、透かし模様と簀の目のある紙(=ヨーロッパで抄造された紙)を使った、西欧製と見られるマーブル紙が複数枚使われているということだ。
いずれにしても西欧におけるマーブル紙製造は、1600年代のごく早い時期には、おそらくはドイツで始まっていたものと見てよいだろう。
なおディドロとダランベールらの『百科全書』(1751年発刊、「マーブル紙職人」の項目を含む第十巻が出たのは1765年)では、ドイツをマーブリング発祥の地としている。
ところでマーブル紙の伝播について概説した文章の中には、マーブル紙がヴェネチアを中心として同時的にヨーロッパに広まったかのような印象を与えるものもある。しかしこと製造に関して言えば、ドイツ-フランス以外の地域でマーブル紙が本格的に作られるようになったのは、その技術が西欧世界に到達してから100年以上後、18世紀も半ばになってからのことであり、それまではこの地域がヨーロッパにおけるマーブル紙の独占的供給源であった。
筆者は当記事の作成過程で「フィレンツェでは17世紀からマーブリングが行われていた」と述べているサイトにも遭遇したが、典拠とする所は何も示されていなかった。おそらくマーブリングが17世紀に西欧に根付いたことと、現在のフィレンツェでマーブリング産業が盛んであることを単純に(かついささか荒っぽく)結びつけた記述であろう。
マーブル紙製造が最初に根付いたのは、ドイツの中でもバイエルン、とりわけ南西部の都市アウクスブルクであったろうとWolfeは推察している。
15-16世紀のアウクスブルクは、大商家フッガー家とヴェルザー家が拠点を置き、商取引や金融で栄えた国際商業都市であった。もともとは織布工として出発したフッガー家は金融と鉱石取引の他、織布業とその流通も経営の支柱に据えいたため、アウクスブルクは織物の一大産地でもあった。そして木版を用いたテキスタイル装飾が発展するにはまことに好都合なことに、同地には木版職人のギルドもあった。アウクスブルクでは15世紀後半以降に活版印刷産業が隆盛となるが、それ以前から写本の複製や木版画による挿絵や遊戯用カードの制作が盛んであったためである。木版を用いたテキスタイル装飾の技術はのちには紙の装飾にも応用され、16世紀の初めには同地において装飾紙産業も確立していた。
西欧で初めてマーブル紙製造に着手したのは、こうした、テキスタイル装飾から派生した装飾紙作り職人たちであったろう。その出自ゆえ、ドイツにおけるマーブル紙は必ずしも書物の装丁に使われたわけではなく、むしろ家具などの室内装飾に用いられることが多かった。初期に作られたドイツ産マーブル紙で、現存しているのが少ないのは、主にこうした散逸・劣化しがちな用途に使われていたからであって、作られた量そのものが乏しかったためではないというのがWolfeの見解である。
一方フランスでは、マーブル紙はそのごく初期の製品から書物の見返しに使われ、王侯貴族の書棚を飾って来た。フランスにおいては、マーブル紙の製造は専ら製本家の業であり、そもそもの初めから書物装丁のために作られたからである。
それゆえフランスの初期マーブル紙は書物というかたちで現在までよく保存され、西欧マーブル紙草創期の様相を今に伝えてくれている。