1.訪問場所
奈良・吉野 国栖の里
(訪問順)(1)植和紙工房
奈良県吉野郡吉野町南大野237-1
(2)福西和紙本舗
奈良県吉野郡吉野町窪垣内218-1
このレポートでは、平成24年10月22日(月) 午前に訪問した植和紙工房と、同日午後に訪問した福西和紙本舗の記録をまとめる。
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■ 奈良・吉野 植和紙工房 レポート 修復基礎 初級 長田克規 |
奈良・吉野 国栖の里
(訪問順)奈良県吉野郡吉野町南大野237-1
奈良県吉野郡吉野町窪垣内218-1
このレポートでは、平成24年10月22日(月) 午前に訪問した植和紙工房と、同日午後に訪問した福西和紙本舗の記録をまとめる。
(1) 市営地下鉄御堂筋線 梅田駅~天王寺駅まで15分程度、(2) 近鉄南大阪線 阿倍野橋駅~大和上市駅まで 吉野特急で1時間15分程度、(3)大和上市駅~国栖の里へはスマイルバス(吉野町コミュニティバス)30分程度、または車・タクシー15分程度。
奈良・吉野のものづくりの里として「国栖の里観光協会」を立ち上げPRしている。国栖地域へは、桜で有名な吉野山から車で東へ20分程度。近鉄「大和上市」駅から吉野町が運営しているコミュニティバス(スマイルバス)を使って行くことができる。
吉野町ホームページから引用 http://www.town.yoshino.nara.jp/
吉野町は、昭和31年に旧吉野町、上市町、中荘村、中龍門村、国樔村、龍門村が合併。奈良県の中央部、吉野郡の北部にあって、町の中央部を東から西に吉野川が流れる。町域の一部は吉野熊野国立公園、吉野川・津風呂県立自然公園に指定されており、全国的には吉野山の桜で有名。
また、「吉野」は、古くは古事記、日本書紀、万葉集にも記述があり、幾たびか歴史の大きな舞台にもなる。後に天武天皇となった大海人皇子が壬申の乱の前に吉野に身を潜め、平家を討った源義経が兄頼朝に追われて吉野に逃げ込み、北条幕府を倒して建武の中興を遂げた後醍醐天皇が南朝の拠点として選んだ。
吉野林業地帯の一部を構成している吉野町は、その地理的条件から吉野材の集散地として発達し、全国に銘木吉野材を供給してきた。この吉野材の端材を加工して割り箸の生産も盛んで、香りの良さと爽やかな音をたてて真二つに割れるのが特徴。
その他の特産品としては、手漉き和紙・柿の葉ずし・吉野葛等があり、全国的に有名。
奈良県吉野町国栖地域は、標高200m程度。
奈良県吉野町:95.65km2 (東西14.9km、南北13.2km)
奈良県吉野町:8,642人(平成22年)
奈良県吉野町では製造業を中心とした産業形態であることが分かる。
奈良県吉野町は山間部に位置するが、総農家数は人口に対して5%程度。そのうち専業農家数は0.05%と極めて少ない。
奈良県吉野町全体で、1学年につき40~50人といったイメージか。
平成24年10月22日(月) 快晴
奈良吉野の国栖の里へ訪問したいと思ったのは、書物総合講座の授業で、板倉先生から吉野の福西和紙本舗の和紙についてお話しをうかがったのがきっかけだった。
兵庫県千種町の「播州ちくさ手漉き和紙工房」へ訪問したあと、各地の和紙の違いを知りたいと思い、いろいろな紙漉き場を訪ねてみたくなり、次は奈良吉野へ行きたいとぼんやり考えていた。
「播州ちくさ手漉き和紙工房」では1人の訪問でも紙漉き体験が可能だが、吉野で紙漉き体験ができる工房はいずれも「10人からの事前予約」とホームページに載っている。お仕事中にお邪魔し、工房で事前に材料や段取りの準備も必要なのだから、それは当然である。
したがって紙漉き体験は無理にしても、見学しながら、和紙作りの原料や工程のこと、歴史のお話しなどを伺うことができればと思い、そういった事情は電話で話して依頼するよりも、直接現地に行って和紙やお土産を買いつつ、工房の方と顔をあわせながら「じゃあ、こんどいつ来ますね」と、きっかけだけ作って帰ってこれたらと考えながらの出発だった。あと、吉野の紙漉き場の周辺の風景を眺めて帰ってこれれば良し、と。
だから何も計画せず、奈良吉野への気楽な散歩気分で、出かけた次第である。
朝いちばんからとても天気良く、快晴に恵まれる。
秋の気配が深まり、カレンダーを見ると翌日10月23日が二十四節気「霜降」にあたる。
『露が陰気に結ばれて、霜となりて降るゆへ也』
火が恋しくなり始めるこの時期、旧暦十月初めの亥の日に火鉢に火入れをする「炉開き」の風習あり。
亥は火を鎮める動物。十二支の亥は、陰陽五行で陰水をあらわし、雨、露、池を意味する。つまり十二支の亥は陰の中でも最も陰であるゆえに、火の難に遭わないために、「炉開き」を亥の日に行うことが多い。
近鉄「橿原神宮前」駅で電車を乗り換え、終点の吉野駅から2つ手前になる「大和上市」駅に午前9:30ごろ到着。
国栖の里へは大和上市駅から吉野町が運営しているスマイルバスで行くことができるが、時間が合わなかったため駅に停車しているタクシーに乗る。
この時点で、まだ目的地を決めていない。「とりあえず、まずは国栖の里の観光協会に行って、そこからぶらり歩いて巡ろう」と考え、タクシーに乗り込み、運転手さんに「国栖の里観光協会へ行きたいんだけれど」と伝える。
運転手さんは少し間を置き、「正確な場所が分からないが、とりあえず国栖の地域へ向かいますね」と言って車を進める。
これが良かった。今回のすべての巡り合わせの始まりになる。
15分ほど走り、国栖の集落の入り口にさしかかったころ、徐々に車のスピードが緩まり突然運転手さんが「ちょっとそこを歩いてる人に道聞いてきますね。」と言い残して車を降り、道路を渡った向こう側を歩いている年配の女性に声を掛けにいく。
しばらくして運転手さんが車に戻ってくると、「ちょうどこの向かいのお家の方が観光協会の会長さんらしいから、ちょっと登って聞いてきますね」と、尋ねたの女性の方と運転手さんの2人で階段を登り、向かいの家へ入っていく。
2~3分後、ふたたび家の中から姿をあらわすと3人に増えている。「あっ!、会長さん。挨拶しなれば」と、僕も車を降りる。
「和紙を探索しに来ました」と僕の事情を説明しながら挨拶すると、その観光協会の会長さんは「植和紙工房の植です」とのこと。驚いて「よく存じてます」と答えると、「じゃあ、ちょうど、上がっていってください」と言って下さる。
「いや、お仕事中で、ご迷惑なので」と遠慮すると、快く「良いですよ」とのお返事。
「それでは。」とお言葉に甘え、タクシーの料金を精算し、植さんのお宅がある庭へ階段を登る。
少し高台になる庭から辺りの見晴らし良く、玄関のそばにある物干しには楮の皮が干してある。そして、さらに右手の奥に作業場の入り口があり、仕事場へお邪魔させていただく。
以下は、植和紙工房の植貞男さんから伺ったお話しをまとめたもの。
現在の植和紙工房は、植貞男さんで5代目とのこと。
「(植和紙工房は)母屋から別れて5代目になる。ずっとさかのぼれば、このあたりの6軒の紙漉き屋さんは全部500~600年前からずっと続いてきていて、ルーツを辿れる。
昔は女の人が中心になって、紙漉きをやっていた。紙漉き屋さんは、女の子ができるとほとんどが紙漉きを教える。こちらの紙漉き屋さんで男の子がいて、となりの紙漉き屋さんで娘さんがいて、紙漉きが上手な娘さんをお嫁さんにもらえば即戦力になる。
ずっとこの地域は、ほとんどが紙漉き屋から紙漉き屋へ嫁入りして、または跡継ぎとして養子に入り、昔は従兄弟どうしでつなぐと、村じゅう全部親戚。そんなんばっかりだった。
これは吉野だけでなく、紙漉きしているほかの産地も全部同じ。そうやって技術をそこの家に持っていき、受け継いでいった。」
――― 今の6軒は?
「今はそういうのは無い。」
植さんの息子さんの奥さんは、ほかの地域から嫁いでこられ、いまは奥さんもこちらで和紙作りの仕事をされている。
植さんは現在74歳。50年くらいこの場所で仕事をされているとのこと。
6代目となる息子さんは、和紙作りを始めて20年あまり。44歳。息子さんもこの場所でずっとお仕事をされている。
「今は、奈良県内で紙漉きをしているのは、吉野の川筋で6軒だけ。昔は300軒ほどあった。上下50kmの間に、下市のほうから、東吉野村、川上村、など川沿いに並んでいた。
やはり、水が綺麗であり、かつ、水が豊富に必要なため、この川の水を使ったり、また、山から流れてくる水を使ったりしていた。」
――― 和紙がこの国栖地域で残ったのには理由がある?
「水が綺麗し、豊富にあるということ。もうひとつは、このあたりは田んぼがほとんど無い。畑といっても自分のところで食べるぶんをまかなうくらい。
ここで生活していこうと思うと、ものを作るか、山仕事をするしか無かった。そして昔は紙漉きしか無かった。ほかの地域でも、田舎のところはそういうところが多い。
いまは機械による洋紙。パルプにして仕上げるのは明治なってから。それまでは手漉きの紙しかなかった。昔は、障子、傘紙、大福帳とか、書きもんは全部和紙でできていた。日常に大量に使うものだから、あちこちで大量に漉かれていた。」
洋紙ができてからは、安くて大量にできるようになり、紙の需要はそちらで賄われてきた。
一方で、掛け軸や文化財の修復などでは、現代でも和紙は欠かせない。
「『最低なんぼかは続いてやってもらわなあかん』いう話になってるが、なんぼ代々続いた仕事やいうて残していかなあかんいうても、生活出来なんだらしゃあない。そんなんで、どんどん減っていっていまは6軒のみ。」
現在吉野にある6軒の和紙作りの工房のうち、後継者がいるのは、植和紙工房と、もう1軒福西和紙本舗の2軒だけとのこと。
「もうその代で終わっていっていくと思う。」
――― 年々減っている?
「最近、むちゃくちゃ減ってきている。5年ほど前からこっちは、ほんまに減っている。」
――― 5年前は、もう少しあった?
「それまではもう少し需要があった。今は、掛け軸用として漉く量というと、1年のうち3ヶ月くらい漉けば、充分問屋さんの賄いができる。
あとの9ヶ月は、なにかで補わないと、来年へ続かない。そこでいろんなことをやっている。体験教室して、和紙の良さをみんなに見直してもらわないと。最近は小学校での体験教室も多い。遠足で来てもらったりしてやっている。」
――― 勉強を始めるまでは、和紙とぜんぜん接点なかった。和紙は、その土地の生まれというか育ちというか、違いがある、そんなん知っていくと・・
「面白いでしょ。」
――― はい。
「白土といって、和紙に土が入っている。それがいちばん吉野の和紙の特徴。主に掛け軸用に使われることが多く、一般のお客さんはこの紙は使わない。書道用などには使われない。」
「掛け軸用の裏地、中裏と、漆濾し用の薄い紙、その3つが吉野ではメイン。最近では、掛け軸をどんどん掛けるところが無くなった。
表具屋さんがひまになると、うちらもひまになる。だからほかの紙とか、最近はいろいろやっている。日常使うハガキとかも手がけ、変化しながらやっている。(白土が入っていない)楮100%の和紙もある。それらが主に、書道用とか、水墨画とか、版画とか、障子紙とかにも使える。
白土が入ったものは、特殊なところへしか売れない。」
「漆を濾すための薄い和紙は楮100%。白土は入らない。これはほんとうに繊維だけになっている。繊維にはどうしても中に泥けのようなものがあるので、それを全部洗い流して、繊維の筋だけにする。そして、それを漉いている。川の水でざあーっと流すと、細かい泥けのようなものが全部流れていく。そして、漉く。
独特な漉き方で、ふつうは漉いた紙を上へ上へ重ねるが、漆濾し用の紙は漉いたら1枚ずつすぐに板にぺたんと貼り付ける。だからあまり大きなのは漉けない。」
――― 先日、岡山の倉敷で「宇陀紙」と書いて売られている和紙を見かけた。「宇陀紙」とは製法をあらわすのか?、何をあらわすのか?
「表装用で宇陀紙というと吉野だが、品質が良いのでほかの産地がまねをして同じ名前をつけたのだと思う。岡山倉敷では、『備中宇陀紙』とかそんな名前なのでは?。
でも、備中の丹下さんが作る紙はものすごく良い紙なので、よその産地の紙の名前をつけることも無いと思うのだけど。」
吉野町の北東に隣接するのが宇陀市であり、「宇陀紙」の名前はその地域に由来している。
――― 吉野なのになぜ宇陀紙というのか?
「宇陀でむかし城下町があり、その城主が米と紙を城下町のいちばんの財政の収入源にしていた。そこでは宇陀米という良い米が採れる。
当時そこで、お殿さんが資本を出して城下町で紙問屋をつくり、その問屋さんから紙漉き屋さんへ材料をまわし、漉いた紙をぜんぶ買い取って全国に売り歩いていた。
そのおかげで、吉野では現代まで何百年も続いている。それを、吉野にしたら有難いということで、吉野で漉いているメインの紙を宇陀紙いう名前に付けよういうことで、30年くらい前につけた。」
――― では、「宇陀紙」は昔からある名前ではない?
「『宇陀紙』いう名前をつけたのは、30年か40年くらい前。その前は、はっきりわからないが「並白」(なみじろ)という名前で読んでいた。 30年ほど前に、これも伝統ある紙ということで、大和宇陀紙という名前をつけ、表具屋さんへまわるとそれが品質が良いということで、大和宇陀紙というと一流の表装用の紙として認めてもらった。ほかの産地もそれならって同じ前をつけたのでは?
備中のほかでは、九州の福岡の紙もそういう名前をつけ、今も漉いている。福岡は原料の処理のしかたがだいぶ違うため、値段的に安い。最近は、上等な表装をするお客さんが減ってきているので、表装屋さんも安い紙で安く仕上げる、というところに来ている。
紙代にすれば何百円かそのぐらいだが、一幅に仕上げると、値段的に差が出てくる。表具屋さんも、安く仕上げようと思うと、材料は安いのを使うようになってきている。
吉野の紙は、3つに切って、3つにつないで手間がかかる。本当のあつらえ用のお客さんが、いい先生とかいいお坊さんに有名な字を書いてもらい、それを自分の家の宝物にする。『立派に仕上げてもらえればそれでよい』というようなところで吉野の紙は使ってもらう。」
「修復用の紙となれば、丈夫で、長持ちし、何年も持たないといけない。年を持たそうと思うと、漉くまでの原料の処理で、繊維を傷ませない処理をしないといけない。そこで手抜きをして、薬品をたくさんいれたり、漂白したりすると、ものすごく紙が弱くなる。そうなると長年もたない。 紙にちょっと斑点が出てきたり、いろいろある。
このへんの紙は、100年でも200年でももつやろう言われているやり方でしている。」
「吉野のほうは、量は減ってきているが、問屋さんがずっと買ってくれている。いろいろな厚みがあるので、薄いもの、厚いもの、補充しながらいつ問屋さんがいうてくれてもええように、そういうのをそろえている。」
昔から地元に問屋さんが5軒ほどあり、そのほかでは大阪で大きい問屋さんがあるとのこと。京都、東京のほうでも1軒問屋さんがある。そして全国の表具屋さんへ卸す。
また、紙や生地、上の棒とか、表具を仕上げるのに必要なものをそろえる材料屋さんいうのがある。紙漉き屋→紙問屋→材料屋→表具屋 へと和紙が流れていく。植さん曰く「それは小さいルート」とのこと。
原料は楮。
「最近はなるべく地元でとるようにして、けど足りないので、四国の高知県から楮を買っている」とのこと。
吉野では楮作りからやっている。楮畑があり、正月が明けると切りとり、蒸して、皮をとる。
ノリウツギは北海道から。
大台山系に入って行く道で、昔は木を伐採して炭を焼いていた。かつては「山行きさん」がいて、その炭を焼く家のなかで寝泊まりしながら3~4日かかって、和紙の原料になる木を切って、皮をとっていた。
「いまはもう森林になってしまって、入っていく道もないしわからないし入れない。
ノリウツギいうのは、普段はなかなかわからない。ノリウツギは6月から7月にかけて白い花が咲く。咲けばわかり、それを目指すけど、ふだんはわかりづらい。」
植さんに、ほかの産地でつくられた機械漉きの和紙も見せていただいた。
「機械漉きの和紙は、原料をきつく薬品で煮て、網の上を原料がざーっと流れていって、向こうで巻き取る。
透かしてみたらわかるけど、厚いところと薄いところいろいろあるでしょ。簀のあと、簀を編んだ糸のあととか、そんなんが全然無い。簀を編んでいる糸が均等かどうか?、手で漉いたか?、機械で漉いたか?、和紙は透かして見ればどういう漉き方をしたかがすぐに分かる。
手で漉いても、竹の簀で漉いたのか、かやの簀で漉いたのか、それも透かしてみたらすぐに分かる。」
「機械と手漉きのいちばんの違いは、機械漉きは漉き方が原料を流しているだけだから、繊維が重なっているところもあるし、重なっていないところもある。だから、紙はそれほど丈夫でない。ただし機械漉きは、一閑張りやちぎり絵などの使い道がある。
紙は、層が薄くても厚くても、繊維が何層にかさなっていくかで強度が違う。同じ1mmの厚みのなかでも、繊維が10層の場合と100層の場合で、ものすごく強度的に違う。」
「機械漉きは縦にちぎっても横にちぎっても、同じようにちぎれる。手漉きはそういうちぎり方はしない。それは、一方的に繊維が流れているから。漉くときは一方向に漉く。そうすると、繊維が一方向に流れていく。
ほかの産地、たとえば岐阜県の紙は提灯に使う。あれはたたんだり伸ばしたりしないといけないので、縦と横同じような強度になっている。 縦と横強度を同じようにしようと思うと、縦にゆすって、横にゆすってやれば、繊維が縦と横になって、縦横どちらにちぎるのも、両方だいたい同じような強さになる。
だから、ちぎりやすさで漉いてる方向もわかる。」
――― へぇ。
「簀の糸のあとが、ずっと同じ間隔で編んだものはすすきの穂をつないでいる。おなじ間隔で編んでいけるから。
竹の場合は、そういうやり方ができないので、幅が広い部分と狭い部分ができる。糸の間隔がちがう場合は竹の簀で漉いている。」
「土が入ると、掛け軸にした場合、土の重みですっきりかかるというのと、少し水分を吸収したり吐いたりするので、湿気の多い時でも乾いた季節でもしっかりかかる。掛け軸が波打ったりそったりしない。」
また、植さんの工房の作業場の壁紙は、和紙で作られている。今で15年ほど貼っているとのこと。
そのほか、檜で漉いた紙、照明の明かりとり、柿渋や漆を塗ったトレイなど、いろんなものを見せていただいた。
あと、ホームページでも見たことがあった和紙でできたグローブ。インテリア用と想像していたが、実際に手にはめてみると感触は本物のグローブそのものなので驚いた。
工房で紙を作り、あとはスポーツメーカーのミズノで加工するとのこと。
――― ふつうに野球ができるんでは?
「軟球くらいまでだったらいける。あとはインテリアとか、有名な選手にサインしてもらうとか、そういうところで使ってもらっている。」
グローブに手を入れた感触をくらべると、ふつうの皮のグローブと何ら変わらない。しかも皮のグローブよりずっと軽いので、速く走れて運動性抜群。
「吉野町は観光協会が3つあり、そのうちのひとつが国栖の里観光協会。国栖の観光協会は立ち上がって今年で8年目。まだ浅い。
国栖のほうはほかの観光地と変わっていて、来てもらって体験してもらう、ものづくりをしてもらう。建物とか風景とか見てもらうだけではなくて、工房で体験してもらうことがメインでやっている。」
――― 植さんが、観光協会のイベントを主催されている?
「そうそう。一般の方から募集して、その募集した中からオークションに出して、お客さんに買ってもらう。
その買ってもらったお金から次の材料を買えるので、それでまたものを作ろうかていう気持ちになるでしょ。
オークションやなしに、ただ出店してもらって、『はいこれで終わりました。持って帰ってください』では、どんどん家の中に溜まるんでね。
それやったら、なんぼか分からへんけども、お客さんに買ってもらったら『また次作ろう』いう気持ちになるし、同じせりにかけても『となりのひとはいくらで売れた、わたしはいくらで売れた』そうやってちょっとひと工夫考えてね、そういう気持ちになってきてええんとちゃうやろうかと。」
「オークションのやりかたもなかなか難しい。今年で3回目だが、1回目のときは全額町へ寄付して、災害のところへ、募金の一部とした。だからオークションの値段は1円、100円からスタートした。
2回目はもうちょっと作品出してほしいということで、一般の方に出してもらうために何円から落としてもいいか?事前に聞いた。そうすると、オークションのスタートの値段によったらなかなか買ってもらえず、2つか3つしか売れなかった。
3回めの今年は、最低500円からいうことにしたら15ほど作品が出で、全ての作品が売れた。最高は13,000円いった。」
「そんなふうに、みんなが作って出してもろて、それがまたほかの人が気に入って買ってもらい『国栖の里行ったら、安くて良いものオークションで買えるよ』となれば、それだけを目指して来てくれるお客さんも出てくるんちゃうやろか、どれだけ続くか分からへんけど、それを目指して行こうということで。
そうなったら、年中、いろんなもんみんなで作って、国栖の里行ったらいろんなもんあるよいうて。また、こんなん作ってほしいて言って、デザインして持っていけば作ってくれるようなればね、それはいちばんええことやいうて。
ただ紙を漉いて、木があって、と違ってそうなれば。理想やけどね。」
「けど、面白いはなしでっしゃろ?ええ発想でっしゃろ?」
――― うん。
「ひとつのね。地域の事業みたいになればいいと思いますねん。そうなれば、自分らで考えて、家族で考えて、あないしょこないしょ、どないしょか?ていうてね、子どももばあやもいっしょにもの作れますやん。いろんもの。
僕はこんなん作るわ。私こんなんつくるわ。ほな、お父さんこんなんしぃとかいうてね。それを出して、みんなに喜んでもろて、多少なりお金が入ればね、面白いでしょ。何しろ、ひと回りせんとあかん。途中で切れてしもたらあかん。そない思てますねん。」
――― このあたり冬になったら雪が積もる?
「昔は30cmも40cmも積もってたけど、最近は年に1回か2回、10cmくらい。冬はちょっとチェーンさえまけば大丈夫。通行止めとかは、ない。 昔は冷たかったから、川で原料ゆすいで、ゆすいどったら途端にパラパラとツララが凍って、そのぐらい冷たかった。 いまはそんなん全然ない。
たぶん、5度くらいは冬でも上がっとんちゃうかな。
そのぶん、また夏上がってまっしゃろ。35度が今あたりまえみたいになっとる。昔はそんなんなかった。」
1時間と少し植和紙工房の作業場でお話しをうかがった後、植さんの軽トラックに乗せていただき10分ほど走り、吉野三茶屋(物産館)へ向かう。
ここは、吉野町以外も含む、奈良県東部の山間部のものづくりをしている方の作品が並んで、お土産を買うことができるのと、いろいろなものづくりの体験コーナーがある。
玄関の大きな木。これは杉の木。
体験工房は、和紙、ガラス工芸、エッジング模様、割り箸、古木などのものづくりを体験できるコーナーがある。
途中、物産館の喫茶コーナーでソフトクリームをごちそうになり、ふたたび植さんと和紙のおはなし。
「吉野では、和紙づくりは家族だけでやっている。雇ってすることはない。規模が小さいから。ほかの県は、機械で漉いて、大量に漉いていく。吉野は手漉きだけ。全国では、軒数からいくと手漉きのほうが多いと思うが、生産金額的には機械漉きのほうが多い。生産金額の8割は機械漉きではないか。機械で漉けるところは、量産ができる。」
「手漉きもどんどん減って、全国でいま150軒くらいと思う。手漉きのなかでも、安いの高いのいろいろある。手漉きの工房は、九州から、北は長野県あたりまでだと思う。
北海道も富良野で手漉きで紙を漉いているが、材料はぶどうの蔓を砕いて、パルプを入れて、便箋や封筒など土産物用として作っている。
東北では、富山、石川、新潟も紙漉きが多い。太平洋側は仙台。そこから北へ行くとあまりないと思う。あと埼玉、山梨、群馬、千葉にも紙漉き場がある。美濃は多い。」
「兵庫県だと、杉原では楮作りからしているからあそこの紙は良い。材料がいいから。和歌山県でもいまでも漉いている。昔は高野紙いうて、高野山で使う紙とか、まんじゅうを包む紙、そんなんを専門で漉いていた。」
「奈良県の紙漉きは吉野。あと専門では、天理教のなかで使う紙を、天理教のなかで漉いている。天理教は全国にある。そのなかに紙漉きの経験のある人がいて、工房で漉いているのでは?。それらは天理教の中で使われ、売ることはない。」
「京都も黒谷というところで漉いている。黒谷では、地元の方がほとんどやめて、研修生が習いに来て、組合の中に入ってやっている。」
「吉野に専業農家はない。たくさんの量ができないから。自分のところで食べるくらい。」
「昔は雑木山ばっかりだったが、今の山は杉、檜になり、それらは植林の結果そうなった。当時は建築材料として、杉の木がよく売れた。杉の木は30年で1人前になるからすぐお金になる。100年も200年も置く必要はない。しかしいまは需要が無い。
切っても売れないから放ったらかしで荒れるばかり。木を山から出す手間賃もない。そこに雨がふれば土砂が崩れ、悪循環になる。」
植和紙工房の向かいの道路で、タクシーの運転手さんが声をかけることになる女性の方が歩いていなかったら、これらすべての巡り合わせは無かったのかもしれない。
後に植さんから、その方は植和紙工房の向かいでお店をされていること、兼ねて観光協会の事務のお仕事をされていることを伺うが、お礼を伝えることができないまま帰ってしまった。いずれまた伺って、改めてご挨拶したい。
植さんのお話しは、和紙作りそのものについて、さらにその周辺のことがらについて、たくさんのことを知ることができ、興味もさらに広がった。
なかでもいちばん印象に残っているお話しは、観光協会での、材料の生産、材料を使ってものを作る人、ものを買うお客さんの「循環」について。自立した経済的な循環を生むことはもっとも大切なことで、同時にもっとも難しいことかも知れない。
しかし、自分自身もそうだったが、こういった「手仕事」を知ることができる機会が世間で増えれば、これからも少しずつでも、良い循環を生んでいけるのではないか。
次のレポートでは、福西和紙本舗を中心として、訪問記録をまとめる。
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