1.工房
■名称
播州ちくさ手漉和紙工房
■住所
兵庫県宍粟市千種町河内533-1
■代表
吉留 新一 氏
HOME>レポート>レポート51 | |
|
レポート51 |
■ 播州ちくさ手漉和紙工房 レポート 修復基礎 初級 長田克規 |
播州ちくさ手漉和紙工房
兵庫県宍粟市千種町河内533-1
吉留 新一 氏
<JR大阪駅からの場合>
(1)JR大阪駅からJR姫路駅まで約60分(新快速)、(2)JR姫路駅から神姫バスに乗り山崎(宍粟市)停留所まで約60分、(3) 山崎(宍粟市)停留所でバスを乗り換え東河内までさらに約60分。 山崎(宍粟市)停留所~東河内間は、平日・土日とも1日4往復。
工房がある宍粟市千種町河内地区は、標高460メートル程度。
宍粟市全体:42,148人(平成24年9月)
宍粟市千種町:3,412人(平成24年9月)
[Wikipediaより抜粋]
兵庫県の所属となる。現在は豪雪地帯、過疎地域自立促進特別措置法による過疎地域に指定され、過疎化、少子高齢化が深刻である。町内を横断して国道429号が通っており、西は岡山県津山市、東は波賀町、一宮町へと通じている。
現在市内には鉄道は通っておらず、淡路島を除けば県内の市で唯一鉄道の通っていない市となっている。また、過去においても旧波賀町に波賀森林鉄道が存在しただけで、一般の鉄道が通ったことがない。全国でも他にこのような市は離島を除き茨城県坂東市、稲敷市、東京都武蔵村山市、岐阜県山県市、高知県土佐市だけである。
ササユリ
ブナ
[宍粟市役所HPより抜粋]
宍粟市はその大部分を山地が占めており、平地が少ない状況にある。兵庫県下最高峰の氷ノ山、第二峰の三室山、第三峰の後山など、1,000メートルを超える山々がそびえ、氷ノ山後山那岐山国定公園や、音水ちくさ県立自然公園に属する緑豊かなまちである。
また、県下を代表する清流である一級河川の揖保川や日本の名水百選の千種川をはじめ、福知渓谷、赤西渓谷、音水渓谷等の景勝地、日本の滝百選の原不動滝、かおり風景百選の千年藤、花菖蒲園など、豊かで美しい自然資源や風景が、四季折々の風情を織りなしている。
[Wikipediaより抜粋]
千種町は宍粟市北西部に位置する。『播磨国風土記』によると古くは神々が腰を下ろす場を意味する「敷草村」と呼ばれていた。また古来より千種鉄(宍粟鉄)の生産地として有名であり、千種鉄は上質なことで名をはせたことから、製鉄業を中心に発展した。今もたたら製鉄所跡が残っている。
工房近くの千種町西河内地区にはたたら遺跡が多い。工房のご主人によると、千種で古く奈良時代から紙漉きが行われたいた記録が残っているが、たたら製鉄はさらに古い時代から行われていたとのこと。また、たたら製鉄を営んでいたひとたちと、紙漉きを営んでいたひとたちは、当時対立が深かった。
(1)高保木たたら(製鉄)遺跡
・兵庫県指定
・3ヵ所
・千種町西河内
(2)天児屋鉄山跡
・兵庫県指定
・千種町西河内
・江戸時代~明治18年(1885)まで操業
(3) 森の上鉄穴流場
・宍粟市指定
・鉄砂(かんな)仕上げ場
・小型製鉄炉・昭和41年調査
平成24年10月7日(日) 晴れ時々くもり
朝すこし肌寒いが日の光が射してちょうど心地よい。
JR姫路駅から神姫バスに乗り、途中の山崎(宍粟市)停留所まで60分。駅から遠ざかるにつれ、徐々に田畑が広がる風景にかわる。絵に描いたような、青空の下に広がる黄金色の垂れる稲穂。さらに稲穂のまわりに点々と咲く赤色の彼岸花が映え、白・ラベンダー色に咲くコスモスなど、秋の真っ只中。
山崎(宍粟市)停留所着。15分ほどの乗り換え時間をはさみ、バスを乗り換え、工房のある東河内へさらに60分程度。
山崎(宍粟市)停留所から、バスが走る道路はだんだん険しさを増し、田畑は徐々に減る。田んぼはあるが、すでに刈り取られているのか、稲穂はまったくみられない。バスは川のそばを走り続け、水は清く、途中のバス停は「河」がつく地名が続く。河呂(こうろ)、下河野(へごの)、東河内(ひがしごうち)など。 だんだん山奥深くなるにつれ空に雲が多くなり、午後1時過ぎ東河内停留所に到着。工房はバス停から歩いて5分程度。すぐに見つかる。雨が近い気配。
吉留新一様宅にて。「ごめんくださーい」と声をかける。
以下は、ご主人の吉留新一さんからうかがったお話しをまとめたもの。
吉留氏は昭和42年大阪生まれ。
昔は周辺の山では雁皮、楮、三椏、のりうつぎ、まつたけなど、原料となる植物が多く自生し、歌にもうたわれていた。昭和39年の森林法施行により、人工林として植林され杉などに変わり、いまではそれらの原料はずいぶん減った。
楮畑もあるが、このあたりでは田畑に農作物(米、野菜など)を植え、その周囲(田畑の枠)に楮を植えることが多い。楮はどこでもよく育ち、「楮はそこいらじゅうにある」とのこと。
習慣として、山中の北側斜面で杉の木の間に植える。
三椏は日のたくさん当たるところでも生育するが、日当たりが良すぎると枝や葉が盆栽のように横に広がってしまい、刈取り作業に手間がかかり、和紙づくりの作業に適さない。原料の木はできるだけまっすぐにすらっと伸びた形が理想。したがい、日が少しだけ射す北側斜面の杉の木の間に植えると、植物の習性で日の光をもとめ、理想的なすらっと背の高い姿になる。
また、千種町のように雪が多く降る地方では、三椏に雪が被ると枝が折れてしまうため、杉の木の下で雪が被らないように植える。
沈丁花(じんちょうげ)科だが、桜とよく間違われる。桜は曲げるとボキッと折れるが、雁皮は繊維状なので、なかなか折れない。しなりがあるから、雪深いところで雪をかぶっても折れにくい。
雁皮は台切り(根を残して刈り取り、翌年ふたたび根から伸びた枝を収穫する方法)ができるという研究者もいるが、ご主人の経験では、雁皮はいちど刈り取ると生えてこない。雁皮は秋になると小さい種ができ、その種が地面に落ち芽が生えて自生する。つまり、雁皮は根から出るのではなく、種から出る。一方、楮、三椏は台切りしてもふたたび枝が出てくる。
雁皮は、広葉樹が生えている山の南側で、かすかな日差しがあるところ斜面によく自生している。ご主人によると「たとえば明石にもありますよ」とのこと。
雁皮は5年から8年で枯れ、枝の節にカビのようなものができると、枯れてくる。雁皮は病気にかかりやすく、種を植えて育てるのは難しい。
写真のものは、鉢植えで10年くらいとのこと
雁皮も、すらっと背の高い姿が理想。
つまり、楮は日のよく当たる田畑の周囲に植え、三椏は山の北側斜面で杉の木の下で育ち、雁皮は山の南側斜面で自生する。
工房では、純雁皮の和紙を中心に生産されている。
ご主人曰く、「和紙作りはいまは特殊な技術。漉いてる人は、原料の植え方も原料の生かしかたも知ってないと、いまは生き残れない」。原料は工房周辺で採るのもあるが、ほかに高知、姫路、相生、赤穂などから仕入れる。六甲、明石などから持ってくる人もいるとのこと。
ネリはのりうつぎと黄蜀葵(とろろあおい)の混合。黄蜀葵はもうすぐ11月にはいってくるとのこと。
雁皮は鉄板乾燥(*注1)ができないため、板に干して作業している。干し板はイチョウの木。ご主人が発注して独自に作ったものや、ご主人の師匠から譲り受けたものは江戸時代から使っているものもある。「道具は師匠に教わり、独自に改良して、合うものを使っている」。
地下水を使っている。水は中性。
川の水は権利等の関係もあり、トラブルを招く原因にもなり使っていない。ご主人曰く、「家族みんな千種の出身者ではないことも関係している。紙漉きは、外から技術者が来て指導して初めて根付くもの。紙屋は昔から、外から入ってきてその土地に住み込み、根付いている人が多い。」
(*注1) 板干しによる乾燥 と 鉄板乾燥
和紙の乾燥方法は、板干しによる乾燥と鉄板乾燥に分けられる。
板干しによる乾燥の場合、大きな干し板に漉き終えた白い紙を1枚ずつ貼り付け、屋外で天日に干して乾燥させる。このとき、何枚もの干し板を屋外へ運び出す、紙が乾いたらふたたび板を屋内に入れるなどの重労働を要する。また、乾燥は天候に左右されやすく作業の効率が下がることもある。 そのため鉄板乾燥機が考えだされ、鉄板を三角形の形状に貼りあわせて中から鉄板を熱し、鉄板に貼り付けた紙を乾燥させる。実際は、鉄板は錆びやすいためステンレスなどを使用する。
写真は兵庫県多可町の杉原紙研究所で使われている鉄板乾燥機。高さが2メートルくらいある鉄板が丸みを帯びた形状で組み合わされ、漉き終えた和紙が1枚ずつ貼り付けられ乾燥作業が行われていた。鉄板に触れると少しぬるめのお風呂の温かさといったところ。気持ちよい。杉原紙研究所の紙漉き体験で自分が漉いた紙は、この鉄板で1時間程度乾燥された後、手元に戻ってきた。鉄板乾燥だと天候にも左右されることなく、効率的に作業をおこなうことができる。
鉄板乾燥は板干しよりも高い温度で乾燥するため、板干しにくらべて紙に残る水分量が少なくなり、紙の仕上がりが固くなる。したがって、紙のしなやかさをくらべると板干しのほうが優れる。また、板に干された紙の場合、貼り付いた板とともに乾燥していくときに紙の繊維が無理なく水素結合を行っていくため、仕上がった紙は強度が高くなり、鉄板乾燥よりも強い紙ができる。
このように紙の品質においては、板干しによる乾燥の利点は大きい。
ご主人は西宮名塩で5年間、さらに備中和紙の丹下氏のもとで5年間修行し、平成4年(24歳)にいまの千種町で工房を開いた一代目である。
千種町は冬は雪がよく降り、紙を干したら凍ってしまう。師匠のところで習ったことを基準として、ここの環境にあわせながら漉いている。
奥さまは、金沢で文化財の修復を勉強し、修復のお仕事をされていたのとのこと。約10年前に千種に来られ、いまは工房のお仕事をされている。お子さんが2人の4人家族。
ご主人は、千種の紙漉きの歴史についても、ご自身で辿りつつ調べている。以下は、ご主人からうかがったお話し。
千種町も、奈良時代から紙漉きをしていた記録が奈良にある寺院に残っているとのこと。当時のとある宗派の仏教僧が、紙漉き技術の先生としてこの土地に来た。
千種での紙漉きは奈良時代から明治、大正、昭和までずっと続き、昭和になってから途切れていた。
千種町史によると、明治10年に紙漉きしていた記録があり、昭和に入りヤマモトという名字の人が、千種小学校の裏で紙漉きをしていたが、昭和37年ごろに大雨で洪水により被災されたとのこと。その後、平成4年にご主人が工房を開かれるまでは、千種で紙漉きは途切れていたと思われる。
千種では奈良時代に仏教とのつながりで紙漉きが始まり、播磨国で漉かれた紙は奈良正倉院にも行く。江戸時代には、千種で思草(しそう)杉原紙を漉いていた記録もあるらしい。
この地域は、たたら製鉄も古代から栄えており、たたら師は紙よりも前からこの地域に来ていたとのこと。
たたら師は、自分たちが見つけた鉱山を隠していた。ゆえに、ほかの人間が山に入ることをもっとも嫌うため、和紙の原料を求めて山に入ってくる紙屋とたびたび争いがおきた。
奈良時代には、たたら師は作業の段階で水を汚すという点でも、水を使う紙漉きと敵対していた。
以下は、現在工房で行われている工程。
山の中に自生している雁皮を探しに入り、現地で雁皮の皮を剥ぎ、剥いだものを乾燥する。12月から4月の間に採取するのが理想。雁皮は5年から8年ものを採取するのが理想だが、もっと若いものも採取する。ただし、小さな木はできる限り残しておく。
剥いだ皮は1年ねかし、次の年に水につけて川晒しする。
ご主人が紙漉きを習った土地(西宮名塩、岡山など)では、川晒しは「かわざらし」と「かわさらし」の2とおりの意味があり、(1)「かわざらし」=洗う、(2)「かわさらし」=真っ白にする、という意味になる。
ご主人の工房では、(1)「かわざらし」のみ行う。つまり、皮を洗う工程で終え、真っ白にしない。(2)「かわさらし」で真っ白にすると、雁皮の皮が持っているものが全部失われてしまい、本来持っているものが引き出せなくなるとのこと。
おなじ「白」でも江戸時代の感覚といまの感覚は全くちがい、現代の「白」は真っ白であり漂白の化学薬品を使ったものを基準にしているが、和紙古来の「白」は黄みがかった色だった。
変化の原因は、明治時代に役所が「こういう紙じゃないと売れませんよ」と、強制的に白色を教えたため。和紙も当時の売れ筋を真似し、大量生産、合理化の結果、いまの「白」になった。
古代のひとも、本晒しで川の水につけることで自然的に真っ白にさせる方法は知っていたが、書くということには適していなかった。見栄えはよいが、書くときにじんでしまう。「いまは、薬品があり、それでごまかしてやっているが、文化財修復なんかでは化学反応を起こして、うわーっと、しみが出てしまう」。
晒すことによって白く綺麗にすると繊維の汚れが落ち、和紙を作る工程も効率が良くなり、あとの作業が楽になるのは確かだが、真っ白で美しい紙が使い手にとって書きやすいものとは限らない。
ご主人が工房で作る紙は、手間と労働力とかけて、古来の「白」を守る。ご主人によると、「私のつくる紙は、現代に人気は無いが、修復関係、書家、作家さんなどに使ってもらっている。それらは墨味がでる。ただし、手間がかかる。いちど楽すると、かつての手間に戻ることはできない。」
また、昔のひとは、紙を真っ白にするために和紙に米粉を入れ、ご主人も米粉を入れた紙を漉いている。ただし弱点は、虫に食われやすいこと。(美味しいから)
工房へ訪問した日はちょうど、釜で雁皮を煮る作業をおこなっていた。大きな釜に、燃料は灯油または軽油。雁皮は沸騰してから5時間程度煮る。朝から炊いており、火をつけたのは朝の4時くらい。今年はスタートが遅く、夏ごろに煮るのが本来で今年は2ヶ月遅れでやっている。今ごろ(10月)はいつも紙を漉き始めているとのこと。楮と三椏は煮るのは2時間くらいで終わる。「はやい人だと、楮と三椏は1時間くらいで終わる」。
古来の色、風合いを残すには、ソーダ灰、木灰をつかう。雁皮は万能紙ではない。楮は、書物、障子、版画・・・など用途が広いが、雁皮紙の用途は狭く、特に美しさが必要。「ひとつひとつの工程で手を抜いたら一発で終わってしまう」。
煮終わって火をとめてから、そのまま一晩蒸らす。翌朝4時くらいに釜あげして、川晒し(かわざらし)でざぶざぶ洗う。叩きつけるように、迫力がある作業。
フルコース半紙2枚、色紙2枚、はがき2枚。
漉き舟の撹拌作業。「ざぶる」と呼ぶ。手に持っている道具を「まんが」と呼ぶ。漢字で書くと「馬鍬」(うまぐわ)。転じて、うまぐわ→まぐわ→まんがとなる。
ネリは黄蜀葵(とろろあおい)とノリウツギの混合。濾過してつかう。ネリの色は透明。
紙漉き体験中のご主人のことば。
「毎年紙を漉いているが、環境にあわせて、顔が微妙に変わっていく。紙はなんでも真っ白というイメージがあるがそうではなく、独特のにおいもある。」
「道具も高級品。ずっしりとした手応えがある。本物を味わってもらいたい。道具、原料、本物は全然ちがう。そういったものは、体験しないとわからない。」
工房の和紙3種(雁皮、楮、三椏)それぞれ45倍での観察。
書物総合講座で和紙のことを習うまで、ふだんの生活のなかで紙の違いを気にかけることは全く無かった。しかし、いまでも各地で和紙が生産されていること、そして紙それぞれに違いがあり、その土地の生まれと育ちのルーツを持っていることを知ると、単純に面白く、興味を持ったことが訪問のひとつめの理由。
また、何より僕は植物に疎い。よく見慣れた花や草木でもその名前をすっと答えることができない。当然、楮、三椏、雁皮という言葉を知っても、それらを頭の中で正確に思い浮かべることができない。だから原料を直接自分の目で見て知りたいということが、ふたつめの理由。
さらに、寿岳先生の紙漉村旅日記を読み、次の内容に目から鱗が落ちた。少し長いが、そのまま引用する。
寿岳先生が書かれた「いま」は昭和20年を指す。これが、いまの平成の世の中でも通じるものなのか?という素朴な想像も重なり、紙漉き場訪問に至る。
『紙漉村旅日記 定版』 寿岳文章・しづ著 春秋社
このようなすぢみちを辿って、エウロッパやアメリカへ知られて行つた和紙は、今はもう、世界の和紙である。いちばん立派な本と言えば、わが国の鳥の子に刷るフランスなどのならはし、典具帳と呼ばれるごく薄手の紙が、アメリカではさまざまの用向きに使はれていること、-金目がいかほどにものぼらないために、あまり世の人の眼を惹いてはいないけれども、紙の世界で、和紙のはたしている役割りを数へてゆけば、さうであつたか、と私たちは、今更のやうに驚きを新たにする場合が多い。それというのも、和紙に、すぐれた力とはたらきとがあればこそである。私のこの言葉が、いはゆるお国自慢から来ているのでないことは、イギリスびとでありがなら、和紙をば、「恐らくはいま造られているいろいろの紙のなかで、最も美しい紙」と賞めたクラパトン、また、はるばるアメリカからやつてきて、わが国の紙漉き村を、幾つか親しく見て廻ったのち、「日本でいま造られている手漉紙は、世界ぢゆうの紙漉きのわざの、行きつくことのできるいちばん高い目やすだ」と書いたダード=ハンタァなどの、西洋の名高い紙造りの言葉を、引きあひに出しても知つて貰へよう。
かうした和紙が、今もなほ、わが国の到るところの山あひの村々で、たいていは貧しい百姓の手により、野良仕事のひまな冬の間の片手間に、昔ながらの手がたいやりかたで、多く、しかも安く、造られているありさまを、どれだけの日本人が、まして西洋人が、知つているであろうか。私はまづ、和紙は、何から、どうして、造られているものなのか、それについて、ひとわたりの説きあかしをして見たいと思ふ。
ご主人にとても熱心に教えていただき、生まれてはじめての紙漉き場訪問は、ご縁と運にとても恵まれた。
帰りのバスの時間の都合で2時間の滞在だったが、時間がまったく足りず、ご主人も「次はぜひ1日かけてお越しください」とのこと。
はい、ぜひまた来たいです。
「けど、お仕事の邪魔してしまうので申し訳ない」と言うと、「僕が仕事しているあいだは、うちの子どもが指導しますんで」とのこと。お子さんはすでに2代目?。
ふだん仕事柄ノートPCを持ち歩くため、各会社のモバイル用のインターネット接続状況を比較。紙漉き場がある山奥深い地域では、FOMA回線をつかうNTTdocomo Xi(クロッシー)が必携。そのほかは電波が届かず。もちろん、携帯電話は問題無し。
EM◎、Wi◎、Xi◎
EM◎、Wi×、Xi◎
EM×、Wi×、Xi◎
*EM : イー・モバイル
*Wi : WiMAX(ワイマックス)
*Xi : NTTDocomo Xi(クロッシー)
(平成24年10月7日)
←前のレポート | | | 次のレポート→ |
このページの先頭へ ▲ |
Copyright(C) 2004
書物の歴史と保存修復に関する研究会.All rights reserved. No reproduction or republication without written permission. 当ホームページに掲載の文章・画像・写真等すべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。 |