これは、2010年5月27・28日、プラハで開かれたIADA(ドイツ語圏の人達の保存修復機関)のシンポジウムに参加し、その後スロベニアの友人(イエダルト女史、スロベニア国立文書館修復室長)に誘われるまま、首都リューブリアーナを訪ねた折の報告である。(2010年5月25日〜6月4日まで)
5月27日(木)
今回の会議の実行委員の一人であるレナータ先生(元、アスコナ修復学校の先生で、現在は米国フォルジャー・シェイクスピア図書館修復室副室長)は本当に忙しそうな様子であった。 私が声を掛けると、 「5分、後5分まってね」と言い残し、どこかへ消えてしまった。さて、休憩時間になり、参加者たちはいっせいにロビーに集まり、わいわい、がやがやとコーヒーカップを片手に、もう一方の手にはクッキーを持ち、 てんでにしゃべりまくっている。 私が、 知っている人はいないかな、と参加者の一人一人を眼で追うと、ふと見覚えのある顔が目にとびこんできた。誰だったかな、すばやく記憶をたどっていると、レナータ先生がその後ろから「マサコ、この人覚えている?」といって私に近づいてきた。 その瞬間、私ははっと、その人を思い出した。
1986年、最初のアスコナ修復学校でのクラスメイト、カティーだった。席が隣同士だったので、私たちはよく話をしたものだった。彼女はスイス人で、英語も堪能だったので、英語を話さないドイツ人やスイス人のクラスメイトとの通訳をしてくれた。彼女はルツェルンの図書館務めだったが、翌1987年、当時の先生だったジュリア先生の後任として、修復学校の先生になった。レナータ先生は彼女の後任、というわけである。
私たちは20数年ぶりの再会を喜び、おしゃべりをした。私も彼女もIADAの会議に出席するのは10数年ぶりくらいで、そこで偶然に会うことは、本当にうれしいサプライズだった。彼女いわく「先生業は性に合わない」のでアスコナは1年くらいでやめ、またルツェルンの図書館に戻ったそうである。アスコナの学校時代、イタリアの古い町への小旅行、スイスのブドウ農家での自家製ワインの飲み比べ会、ハイキングなどたくさんの楽しい思い出かよみがえった。 |