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レポート

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 レポート11
 ■シリア出張報告理事編
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シリアレポート
星の国

 アラブは星の国。飛行機やターミナルの天井には星座模様が小さな光で美しく装飾されていた。我々のイメージでもアラブの国々と砂漠はダブって想起される。「月の砂漠」の童謡で培われた砂漠のイメージは確かに砂と星空が似つかわしい。

アラビア数字の怪

 驚いた事にアラブ人はアラビア数字が読めない。我々日本人 ( 欧米人も ) がアラビア数字と言っている 1234 ・・・・はアラブの人は読めない?? 勿論シリアでも数字の表記はある、アラビア文字で。私達がすぐに覚えたのはこのアラビア文字による数字。これが読めなければ一般のお店で物が買えない。値札が読めない、硬貨の表記が判らない。

「7 」のように見えるのは実は6、7は「 V 」、「・」は0、「 E 」みたいなのは4、小さな「△」のような水滴のようなのは5。インドのナーガリ体に良く似た1と9だけがかろうじてわたしたちの知っているアラビア数字のような形をしている。

 どうやら、私達の持っていたアラブのイメージはあやふやなものだった。

水洗トイレの苦悶

 水洗トイレで紙を使用し、その紙をそのまま流せる幸せを痛感した。シリアでは紙をトイレに流してはならない。紙は横に置いてあるゴミ箱に捨てなければならない。勿論、我々が泊まった4星のホテル内でも。だから空港の公衆のトイレなどでも、横の水道の蛇口からか、そこに繋いであるホースで、先ず、きれいに洗い、しかる後に紙で水気をふき取り、ゴミ箱に捨てる。最後まで水圧と方向の調整に中々慣れない私は、生き物のようにくねるホースと格闘の末、トイレの壁という壁を、これでもかというほど水浸しにしてしまった。アラブは確かに私達にとっては異国だ。

夜の活気

 日中の日差しはジリジリと暑いが、乾燥したシリアの日陰は驚くほど涼しい。だから少々暑くても建物の中に入ると意外と涼しい。

 その暑い日が落ち夕闇が迫る頃、人々は町にあふれ出し、市場も店もレストランも一気に賑やかになる。

 一般市民は夜が生活の本場。宿泊したホテルで結婚式が連夜、催された。夜の9時から始まり朝方まで踊り明かすらしい。この結婚式や夜の町並みについて報告しようとするととても長くなそうなの で又の機会に譲ろう。

 シュメール文明・楔形文字など世界で一番古い歴史を持つ国、シリア。シリアに着いた最初の日、なにか変に活気のある深夜、レストランの窓を開け放ち物憂げに飲み干した生ビールの美味しかったこと。その瞬間、アルコールと共にシリアという風土 が私を酔わせ始めた。

『旧ハーリド・アルアズム邸』

 当NPOの会員の新田利恵さんが青年海外協力隊として勤務しているダマスカス歴史文書館 (Historical Document Center in Damascus) は、 1960 年代にシリア首相を務めたハーリド・アルアズムという人の一族が住んでいた旧ハーリド・アルアズム邸の一部。邸は18世紀の建造物で、考古博物館総局の所有。建物内の各部屋を、考古博物館総局に属する様々な部署が、入り混じった状態で使用している。ダマスカス歴史博物館 (Damascus Historical Museum) も併設されている。博物館の部分は邸が修復され、嘗ての面影を垣間見る事が出来る。殆どはゲストルームなど余り生活を感じさせない部屋が多いが、異国から来た私には、とても興味深い。明るすぎる外からひんやりした内部に入ると、空間だけでなく時間も変化し、嘗てのざわめきが、調度の家具、壁や床から滲みだし、ソファーに座っているとアラブの歴史映画の一部に紛れ込んだ様な錯覚に陥った。

歴史文書館 ( マルカズ・アルワサーイク・アッターリヒーエ )

 新田さんの、青年海外協力隊の同僚、小島瑞生さんの情報に因れば、歴史文書館が旧ハーリド・アルアズム邸に移転したのは、1974年のことだそう。文書館には書庫やPCによる画像処理室、事務所、管長室など、多分、嘗てはそれぞれの家族が生活したであろう独立した部屋に配置されている。

 新田さん達が勤務する修復室も天井など一部は美しく修復された歴史的なもの。大きな杏の木と実をたたわわに付けた柑橘類の木の横、扉を開けて中に入ると、水を湛え花を浮かべた八角形の水槽を中心に、十畳ほどの美しいタイル張りの土間があり、その土間の左右に50cm ほど高い床のそれぞれ八畳ほどの部屋がある。その左右の部屋が仕事部屋となっている。

 最初に訪ねた当日、挨拶したガッサーヌ館長に書庫に案内された。殆どの資料は400年前の裁判記録だそうだ。副館長ファラク女史によれば一部はそれより100年か150年前の物もあるという。説明を聞きながら彼女を写真に収めると、どういう風に写っているか見せてと請われた。カメラのモニターで確認してもらうと、満足げに「OK」とにっこり。

精鋭スタッフ・修復室の三銃士

 新田さんのシリアの同僚は三人。チーフのフィダ (29歳) はヘビースモーカーのパレスチナ人。ダマスカスの考古修復学院を出てから、イタリアのモザイク修復のプロジェクトで働いた経験がある。その時の報告書の彼女も写っている写真を自慢げに見せてくれた。勝気な良いとこのお嬢さん風だけれど、後で離婚経験があると聞いてちょっと吃驚。何時もおしゃれなヒジャーブ ( 頭などに巻いたスカーフ ) と指輪を服装の色に合わせていた。

 同じくパレスチナ人のフルード (29歳) は以前、学校の先生をしていて、昨年度に考古修復学院を卒業して今年の4月からスタッフになった。結婚していて子供もあるという。フィダと同じ歳だそうだが、新人だからか彼女に少し遠慮しているように見えた。しかし、直接、修復のアドバイスや指導が出来ない私を退屈させないようにとアルアズム邸内やダマスカス歴史博物館を案内してくれるなど気遣いをみせてくれた。

 一番若いベリバン (27歳) はクルド人で、元はジャーナリストだったそうだ。やはり考古修復学院を卒業して今年の4月からスタッフとして勤務している。何時も目をキラキラさせ好奇心の塊のような印象を受けた。彼女はヒジャーブを巻いていない。

もう一日・・・・

 修復室に訪ねた最初は、指導員の新田さんの先生といっても、現地スタッフにとって我々のことを一体どのような人なのかなど判らないので、少しおずおずと接していた。作業状況や、一枚のものの証書の修復を済ませたものを少し胸 を 張って見せてくれた。見せられるたびに「良く出来ている」「これで良い」など妻が応えた。日本では考えられないことだがフィダが文書館の同僚に頼まれた家系図 ( 実は彼が 知人からの頼まれ ものを持ち込んでいた ) を仕事の合間に修復していた。その修復状況を、こんな物もしているとばかりに見せてくれた。欠けた所の紙継ぎ補修を家系図の原紙と同じくらいの厚さにした和紙を使用する方法を妻が実演して見せた。欠けた形に水で濡らして千切りその紙をなめて整えるのを見た彼女は、目の輝きが変った。途端に他の同僚にも訴えて、妻がすることすべてをビデオに撮りだした。

 新田さんの要望で書庫の法廷台帳などの修復方法を考えて幾つかの方法を提案し、それを現地スタッフに指導した。その一つは接着剤を使用しない、「フィレンツェバインディング」で、もう一つは背革製本の本文をエチオピア綴じで補強するものだった。なかなかエチオピア綴じの原理が理解できないフィダが「私が知っている綴じ方ではだめか」と聞いてきた。妻は丁寧に、これ以上、本を厚くさせないためなど説明しているとフィダの顔色が変った。本の綴じ方には何種類もあること。資料によって最適の綴じ方があり、この場合はエチオピア綴じであり、彼女が知っている綴じ方は、その幾つかの綴じ方の一つでしかない、と理解したようだ。

 彼女達の態度はまた一変した。とても貪欲に技術と知識を吸収しようと。すぐに「トライさせて」と代わる代わる実技を練習する。綴じの練習をしているベリバンを妻が「貴女は優秀な生徒」だと褒めると、すぐさまフィダが「私は、私は」と聞いてきた。「貴女も優秀よ。皆とても優秀な生徒達」と妻が答えるととても嬉しそうに弾けるような笑みを浮かべた。

 そうしていると、新田さんが「彼女達が休みを返上して出勤するので、もう一日教えてほしいと言っている」と伝えてきた。勿論その為にシリアに来たのだから断るわけはない。聞けば聞くほど「休みを返上して」などシリアでは考えられないことらしい。彼女達のこの情熱に応えなくては日本人が廃る。新田さんと我々は予定していたパルミラの観光も諦めその準備に一日使った。

 帰国当日の文字通り出発ギリギリまで彼女達に付き合うという充実した一週間をシリアで過ごせた。

ト・ヨ・タ

 飛行場まで40分ほど、窓を開け放したタクシーは時速120`以上で走った。しかも、2車線の道を横に3台並びつつ、ブレーキなど無いかのように加速し追い越しをする。助手席は心臓にとても、とても悪い。そのタクシー、外観は日本製なのに内装はどう見ても日本製に見えないしろもの。

 文書館への行き返り、我々が乗ったタクシーの前を古びたワゴンの様なトラックが遮ったことがあった。その車に「 TOYO TA 」の文字。どうみても素人が書いたような少し歪んだ文字だ。その文字の上に トヨタの歪んだロゴマークが大書してある。聞く所に依ると日本製を騙ることは珍しくないという。シリアの人は日本人が好きで、どうやら日本のものはステイタスになるらしい。

 飛行場まで乗ったタクシーもその手合いかもしれないと気がついたが、運転技術はたいしたもののようだった。かなりきつい緊張感を強いる運転だったが何事もなく無事に着き、飛行機の時間に間に合った。

遠くて遠い国  今回、シリアは遠くて遠い国だと身に染込んだ。日本から、特に関空から直通がないので、アラブ首長国連邦のエミレーツ航空を使った。それはドバイを経由し、ほぼ丸一日費やしてシリアに着いた。体中がボキボキ悲鳴を上げた。もう歳かも知れないと思う。

 日本で植えつけられていたシリアについての乏しい情報は、着いてすぐ、大げさに言えば悉く崩れた。お前の情報が可笑しいと言われて当然だが、考えてみて欲しい。嘗てのフセインのイラクと同じようにバース党の一党独裁・ゴラン高原を挟んでイスラエルと臨戦中・レバノンの軍事占拠と大統領の暗殺、それに加えて日本の外務省の危険情報地域指定、そしてアメリカの経済制裁。

 これらの情報から3、40年前の日本の地方の都市のようなのんびり、ほっくりした、笑顔の人懐っこい市民と豊かな食材に溢れた町並みを想像できるだろうか。事前の情報からは信じられないくらい平安で日本よりはるかに治安もよく、市民は人生を楽しんでいた。そして、中国や北朝鮮のように為政者のご都合のために、自国民に対して情報を閉鎖していない。テレビは、BBCなどイギリスやアメリカはじめヨーロッパのニュース番組をそのまま流している。NHKの衛星放送も受信できると聞いた。キリスト教徒 ( シリア正教 ) も10%近くいて、ゴチゴチのイスラム教オンリーではなく、かなり宗教的にも柔軟な雰囲気がある。

 海外に行った時すわり心地の好い国とそうでもない国がある。シリアは私にとってすわり心地の好い国だった。今度、再びこの国を訪ねる時には、もっとゆっくり時間を取って東西文化の交差する彼の国の歴史の香りを味わいたい。それはきっと人類の古い夢を思い出せるに違いない。

( スーパーに味噌や醤油・うどんなど日本食と共に売られていた日本酒、街角で飲んだ生ジュースの美味しさ、シリアとフランスとの関係が見え隠れするケーキやべトウインの主食棗、ドバイで見つけた『ナルニア国物語』でキーワードにもなったターキッシュ・ディライツの話などまだまだ報告したいこともある。しかしこれらは今回のシリア訪問の目的と少々異なるので他の機会に譲り、今回のシリア訪問の周辺をエッセイ風に報告させてもらった。シリアレポートと題しながらエッセイにしてしまったことをお許しいただきたい )

板倉 白雨 報告




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