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レポート

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 レポート60
 ■ 西欧マーブリング小史(3)  野呂聡子
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ドイツ・フランス以外の欧州諸国への展開

 18世紀中葉になると、それまではドイツ−フランス圏の独占市場であったマーブル紙産業は、周辺国にも定着し始めた。この頃には独仏両国で作られるマーブル紙の主要なパターンとなっていた単純な斑点模様の他、スペインでは独特のヴァリエーションが生み出され、イギリスや北欧諸国では、発祥国の独仏ではもはや作られなくなっていた古典的なパターンも生産された。 

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スペイン

 「スペインでは17世紀初頭からマーブル紙が生産され、書籍の見返しに使われて来た」とする説もある。しかしこれは、マーブル紙の伝統や製本の歴史にあまり通じていない観察者が下した、誤った見方であるというのがWolfeの論である。古い書物を新しいスタイルに改装したり、印刷されてから年月を経たのちに製本されることは、製本の歴史上まれではなかった。観察者がその点を承知していないと、タイトルページに記されている年代が即ち製本された年代であるものと見誤ってしまう。Wolfは自身の長年の観察に基づいて、スペインでマーブル紙の生産と使用が始まったのは、やはり18世紀中葉以降のことであろうと分析している。

 スペインで作られたマーブル紙は、基本的にはターキッシュ、即ち斑点パターンばかりだが、他の地域では見られなかった、独特のヴァリエーションが生まれた。ライトグリーン、ばら色、赤茶、青などの柔らかい色使いも特徴的だが、最も注目すべきは、全体を覆う不規則な波模様である。


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Vintage Printableより


 波模様は19世紀初頭までにスペインで作られたマーブル紙の大半に見られるものだ。1820年代に「シェル」や「ストーモント」といった新しいパターンが現れ、スペインではもはや波模様が流行らなくなると、ドイツやイギリス、またアメリカで「スパニッシュ・マーブル」と称する波模様をつけたマーブル紙が作られるようになっり、人気を博した。(ドイツではなぜか「グリーク」つまりギリシャの、と呼ばれた)もっとも、こうした「スパニッシュ」の波模様は、本家本元のスペイン産マーブル紙がそうであったように不規則なものではなく、整然として、時には機械的に見えるものさえある。


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Wikimedia Commonsより


 波模様パターンが誕生したきっかけについては、職人が紙に模様を写し取ろうとした瞬間に誰かがバットにぶつかって水面が揺れたのだとか、酒飲みの職人が震える手で紙を置いたためだという説もあるが、自身がマーブル紙職人でもあるWolfeはこれらを逸話として出来すぎたものとして退けている。

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イタリア

 Wolfeによればこの時代にイタリアで作られたマーブル紙はターキッシュ即ち斑点パターンのみであり、特徴としては淡い色彩が上げられるのみである。
 そもそもイタリアでは書物の見返しに装飾紙ではなく白紙を使うことが一般的であった。そのため、18世紀後半に同地でマーブル紙が作られるようになっても、書物の見返しとして使われる機会は決して多くはなかった。そのためもあろうか、イタリアにおいてマーブル紙の製造に乗り出したのは、製本家ではなく(ドイツがそうであったように)壁紙などを作っていた装飾紙製造業者であったろうとWolfeは推測している。

 当時イタリアで最も成功していた装飾紙製造業者は、ヴェネツィア共和国下のヴィチェンツァ県バッサーノ・デル・グラッパに店を構えたレモンディーニ家である。レモンディー二は大量生産と行商によってイタリアのみならずヨーロッパ各地に書籍、装飾紙、聖像、地図、テーブルゲームといった商品を提供し、『百科全書』の「バッサーノ」項に「レモンディーニ社がある事で知られる」と記述されたほどの一大企業であった。



レモンディーニ社の見本帳 Wikipediaより


 1762年にヴェネツィア当局がレモンディーニ社に対して発行した法令の中には、マーブル紙の製造権が含まれている。同社が遅くともこの時までには、マーブル紙を製造できる環境を整えていたことを示すものと考えられる。同社が18世紀末から19世紀初頭に作成した装飾紙の見本帳には、マーブル紙のサンプルも含まれているが、 サンプルの多くは木版や金属版を用いた装飾紙であり、商品の中でマーブル紙が占める割合は決して多くはない。

レモンディーニ社の商品には外国の印刷物を転用した海賊版も含まれていたため、同社はしばしば訴訟を起こされた。1772年、レモンディーニ社がフランスの職人が制作した『最後の審判』の図を転用し、オリジナルの絵にあった紋章をスペイン王室の紋章に代えたものを制作した時、同社を訴えたのはスペイン王カルロス三世であった。スペイン王の紋章が悪魔の側に描かれていたためだ。  

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デンマーク、スウェーデン

 1750年代以前、デンマークで一流の製本家が手がける最高級の製本の見返しを飾っていたのは、フランスまたはドイツ産のマーブル紙であった。この地でマーブル紙が作られるようになった時、職人たちは当時マーブル紙産業の主流となっていた単純な斑点パターンだけでなく、プラカールやダッチといった、独仏ではもはや作られなくなっていた古典的なパターンを、より柔らかい色調とより単純な技法で模倣した。 

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イギリス

 マーブリング揺籃期の英国で職人たちがまず製造を試みたのは、他の地域がそうであったと同様に、ターキッシュであった。コームで模様を描く必要がなく、成功にこぎ着けるのが最も容易であるためだ。
 英国では比較的早くからマーブル紙が書物装飾に用いられ、自国でのマーブル紙製造の試みも散発的にはあった。しかしイギリスにマーブリング産業が根付き、継続的にマーブル紙が生産されるようになったのは1770年代のことと見られる。Wolfe自身の観察のみならず、イギリスで1761年に出版された職業紹介本の中で、マーブリング産業について「まだ英国では未成熟である」と記されていることも、当時の状況を物語っている。

 それでも、ひとたび産業が軌道に乗ると、製本業者は以前にも増して見返しにマーブル紙を用いるようになり、それほど高級ではない本や表紙の装飾にまで利用が拡大した。 拡大する需要に応えるためか、はたまた西洋への伝播から一世紀以上を経てようやく自国まで到達したこの技術に魅了されたためか、イギリスの職人たちはターキッシュの生産のみに満足することなく、かつてドイツやフランスで作られていた古典的なパターンを復元することにも情熱を注いだ。こうした職人たちの不断の試みと技術的熟達の結果、イギリスは1820年頃までに、ドイツやフランスと肩を並べる一大マーブル紙生産国となっていた。オリジナルの手法そのままではなく、独特のやり方で模倣されたさまざまなパターンのマーブル紙は、国内各地はもとより、ポルトガルやアメリカといった諸外国にも売り出された。 


 <参考文献>
  • 『Marbled Paper: Its History,Techniques, and Patterns』Wolfe 1990
  • 『そのとき、本が生まれた』 アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ著 清水由貴子訳 2013




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